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【対談 / 三里塚】 加納典明 × 北井一夫


2015年12月〜2016年1月に 加納典明個展「三里塚1972」を開催した六本木の禪フォトギャラリーにて、北井一夫さんとトークイベントがありました。ギャラリーのblogに掲載されているトークの内容を転載します。
 

 
http://zenfotogallery.blogspot.jp/2016/01/blog-post.html
 
【対談 / 三里塚】加納典明さん×北井一夫さん
 
A conversation between
TENMEI KANOH and KAZUO KITAI on “SANRIZUKA”
 
日程:2015年12月19日[土]
会場:禪フォトギャラリー / 司会:アマンダ・ラ / テキスト:柴田さやか
 
2015年12月5日から2016年1月9日まで禪フォトギャラリーで開催していた加納典明写真展「三里塚1972」にあわせ、加納典明氏と北井一夫氏のトークショーを開催いたしました。当日は複数立ち見のお客様も出るほど大盛況となり、三里塚闘争を始め、お二人がどのように当時の日本社会や写真と向き合ってきたのか、実体験を交えたお話となりました。
 
一部分のみとなりますが、ここでご紹介いたします。
 
関連写真集 :
加納典明『三里塚1972』(禪フォトギャラリー刊 2015)
北井一夫『三里塚』(ワイズ出版 2000)
 

 
司会「三里塚はいろんな人が撮っていましたが、加納さんが撮っていたのは凄く意外でした。」
 
加納典明氏(以下加納、敬称略)
「東大闘争や五月革命があったり、あの時代の青年たちは行動的だった、社会への参加の仕方がアクティヴで、身体をはっていて、実存をかけていましたね。それは演劇や映画や多岐にわたっていたと思います。ビートルズが解散したり、ローリングストーンズ公演で殺人事件があったり、ベトナム戦争が相変わらず北爆をしていたり、騒然としていて、ダイナミックな時代だった。平和はたしかに大事だし戦争がいいわけでは一切ないが、世の中って凸凹していたほうが面白いわけで、そういう時代の方がかえって健康で、東大闘争とか、三島由紀夫の東大での学生との討論は実に面白かったし、僕はノンポリで横から見ていたけどウズウズはしていたんです。生き方としてのポリシーって程でもないけど、群れるっていうことにはNOなんですよね、単独行動が好きだという、損な性癖だと思うんですけど。
 
社会という客体と、俺ということの戦いだと、写真というものを媒体にケンカし続ければいいんだ、と。写真家として戦い続ければいいんだと、それが同時者としての俺の証明だと、勝手な思い込みがありまして、どちらかといえば抵抗する人へのシンパシーは強いわけで。
当時平凡パンチという雑誌があって、僕は巻頭でヌードを随分やったんですけども、NYで草間さんのパフォーマンスを撮って”FUCK”という個展を東京で開催し、メディアにはずいぶん取り上げられて、朝起きたら突然有名人になっていた。
もしかしたら三里塚も平凡パンチに2〜3枚載っていたかもしれないけど、記憶にないくらいだし、殆どあるのも忘れていたんですけど、闘争の写真の話になったときに、話の流れで「そういえば撮っているよ」となって。
要するに写真っていうのは、撮ったら終わりだった。撮って編集者に渡したら終わり、返ってこないもので、助手も何十人も変わっているし、ちゃんとした管理はされていない状態だったんです。
他にもたくさん、加納がこいうの撮っていたの?っていうのがたくさんあって、そのうちの一つなんです。」
 

司会「北井さんは農民たちの写真が多めで闘争現場の写真が少なめですね。」
 
北井一夫(以下北井、敬称略)
「67年から行っていたけど、客観的報道写真とかは撮る意思は全くなかったですね。むしろ普通の農民の生活を中心に撮りたいなというのがありました。」
 
加納「バックグラウンドですね。」
 
北井「ええ、報道的な三里塚の写真はいっぱいあるし、それとは別個に「村へ」とかやっているころ、平凡パンチとかで加納さんの写真はよく見ていて、アサヒカメラで印象的なヌードの写真があって、加納典明の強烈なイメージっていうのはあったね。
 
その時の強い印象と、この三里塚の写真は何か近いものがあるよね。いわゆる女の人を美しく撮るとかそういうものじゃない、それから、機動隊につくでもなく、学生につくでもなく、むしろもろに学生と一緒になって撮ったみたいな感じが、僕はなんか加納さんらしくていいなと思ったんですよね。」
 
 
加納「いわゆる女性の裸というのはストレートボールのいちばんいい素材であると思えたんですね、いかに女体を綺麗に撮るかという時代だったけど、ダイナミックな時代だったので、いかにインパクトを与えるか、パッと見て「おっ」と本を閉じてしまうような。平凡パンチなんて一週間で捨てられちゃうわけだし、そういうのが俺の写真行為だと、超やんちゃな反対勢を気取るポジションっていうのがあるんです。」
 
北井「時代として篠山紀信さんは秋山庄太郎的な女性写真を受け継いでいったものじゃないかなと思うんだけど、やっぱり荒木さん加納さんはそうじゃない、面と向かってぶつかり合う、その女の人との関係性みたいなものが記録されているようなヌード写真だったのかなあという気がしますけどね。」 
 
加納「アラーキーはセンチメンタルな名作がありますけど、電通の社員だったし、ヘタウマの良さは天性のものだと思うけど、彼もどこかに写真というもので世の中のページをめくりたい、僕もやっぱりそれは写真家の義務のひとつだというのが強くあったんです。一介の写真家の写真で、世の中にそれだけ影響を与えるっていうことはそう無いんでしょうけども、でも意思としてはそこに居ました。」
 
北井「何か、ものの見方をかえるような。」
 
加納「そうです、価値をかえる。要するにその人のその日常に弾丸を打ち込むというような意識は強くありました。」
 
北井「やっぱり写真の上でそれまでそういうことが無さ過ぎたよね。70年代以降にそういうこと考える写真家の人が増えてきたのかなと思いますけどね。」
 
加納「あの時代は写真家だけではなくて、三島由紀夫、石原慎太郎、大江健三郎さんっていうのが青年たちの心のどこかの支柱になっていたというような部分がありますよね。今の作家さんってそういう人たちが殆ど居ないと思うんですよ、エンターテイナーの人はいっぱい居ますけど。僕は後年エッチ系のも随分やったんですけど、そういうのも正直、青年たちよ勃起せよと、精神も勃起してくれ、っていうのが僕の奥底にあったんですよね。あれは月に60万部くらい売れたんですけど、出版社の社長が言ってました「加納これ、金刷ってるようなもんだな」って。挙げ句の果て、警視庁とやいのやいのありましたけど、あれも僕ちょっとひとこと言いたいんですけどね。」
 
北井「ああいうのは随分言ってくるもんですか?」
 
加納「逮捕のあと、記者会見をやったんです、控室でのアートディレクターと出版社との話し合いで、俺はよしんば警察ということになったら最高裁までやりたいと、弁護士さんに相談したら二年で二千万かかると、俺はやる、みんなどうする?と。でもみんな「やるやる」ってなったんですよ。
記者会見の時は、加納は思うところ話してくれていいんじゃないのということで。結局逮捕という匂いがしだしたら、出版社とディレクターに懇願されたんですね「認めてくれ」って。記者会見でやるって言ったわけですから、ひっこみはつかないだろうって。挙げ句の果て10日過ぎて出てきたら、スポーツ誌に典明が泣いたなんて書かれていて、泣く理由はどこにもないのに。
いかに警視庁の記者クラブが組織であるかと、あの10日間のJALパックの旅は色んな事を経験したし、それだけのリスクも背負いましたけど、日本のひとつの構造を、身体を通して解った部分もありますね。
 
僕は10日入ってたけど、一日置きに検察庁へ行くんですよ、それで取り調べ室に入ってすぐ「加納さんお話したいことがあったら、話してくださって結構ですよ」って言われたわけですね。これは俺はもう突っ張れば、ひょっとしたら起訴猶予くらいになるなと思ったんだけど、もうそれは友人たちと約束したから、そこは変えちゃまずいなということで、最初から認めますと、日本に司法取引ってないけど、ディレクターをひっぱらないようにできないですかって話をしてたんですね。それで最後に行った時、僕はずっと、国家の言う猥褻ってなんですか?と。それを教えてくれと、拉致もあかなかったんですけど、その人は「加納くん、ここから入らないでくれる?」って、医学書の性器の正面図にグリーンのマーカーペンで、ぐるっと丸が書いてあるんですね。「これは誰が書いたんですか?」って聞くと「俺だよ」って苦笑いしてましたね。
これは言ってみれば検閲になるわけですね、まあ細かい話をすればかなりギリギリ撮っていましたから、でも僕は性器そのものを撮りたいわけではなくて。
やっぱり国家っていうのは俺のほうが上だよ、お前たち見ててやるんだと、警視庁っていうのは非常に感情的な組織でそういう意識が強いですね。我々はやっぱり最高裁までやるべきだったので、文化人の中でも加納を応援しようという団体を作ろうという動きもあったと後で聞いて、僕の人生の中で小さなことではないですから、私の判断はちょっと間違えたと言うことですね。ですから今後あったらちゃんとやりますけどね。」
 
 

 
司会「北井さんと加納さんが三里塚を撮っていた時期は殆ど一緒ですか?」
 
北井「僕は69-72年まで、これ撮って終わりにしたんですよね。」
 
加納「僕はもう撮影日誌なんて無くなっちゃってるんですけど、とにかく乗ってた車に石が飛んできて穴があいたり、そういうこともあるし、バイクにも乗りますから、ヘルメットかぶって、一応間違えられるといけないんでプレスの腕章してたんですね、機動隊とちょっとやり合いになりそうなことはありましたけどね。」
 
北井「僕はね、コレの崖の下のこっちにバリケードみたいなの作って反対同盟と一緒に立てこもっていたんですよ。機動隊はすぐ入ったんだけど、それの2週間前くらいに下の子供が産まれてたので、反対同盟の人たちが産まれてすぐでお父さん拘置所じゃ具合が悪いからと言って、裏から出してもらったんだけど、その時はそんな逃げるようなこと良くないと思ったけど、後になって考えるとその時逃がしてもらってよかったですね、そんなこともあったんですよね。」
 
加納「同業の方を誰も存じ上げないし、森山さん、高梨さん、東松さんとも会ってないし、後は報道機関が多く居ましたね、音撮る方、映像の方とか、そういう意味では同業の方と現地で会った記憶はないんですよね。失礼ながら北井さんのことも存じ上げなかった時代なので。」
 
北井「その方が良かったんじゃないのかな、僕も報道写真の人ってその当時全然知らなかった。三里塚のドキュメンタリー映像を作ってる小川紳介の宿舎に停めてもらってたんですけどね、だから映画の人たちとの付き合いの方が多くて。報道写真の人たちと仲良いと、撮る場所って自然と決まってきちゃうんですよね、機動隊の後ろとか。俺は見てるとね、学生の後ろからは撮ってるんですよ。機動隊の後ろからの画がないから、加納さんは流石だなと思って。つい便利だから機動隊の後ろから撮っちゃうけど、それは嫌だなと思って、自分では絶対しないようにしてたんです。報道写真の人は客観性だからそういうのはどっちでもやっちゃうんですよね。(加納さんの作品は)自分が撮る位置っていうのかな、それがはっきりしている写真だなと思ったよね。」
 

 
司会「多くの三里塚の写真を見て感じた事が、北井さんがカメラを向けて捉えていたのは、三里塚闘争の裏側の風景・情景です。加納さんは闘争現場と、テレビに写っているニュースの写真や、第三者、メディアから見た三里塚、もしくは三里塚と関係なく当時の日本、加納さんの三里塚は現場と現場に居なかった人、メディアからみた三里塚の情報、全部の写真を見てみると、報道写真の写真、加納さん、北井さんの作品、他の作家さんの三里塚の作品、それでようやく三里塚闘争についての全体のイメージを視ることができて、やっぱり写真を撮る時に写真家としての立場が重要だと思っています。北井さんがおっしゃったとおり、加納さんが撮ったときは凄くハッキリしている。それは特に何も考えずに、自分の身体の自然な動きで、撮っていけたんでしょうか?」
 
加納「別に考えてなんかなくって、うろちょろしながら、感じるというか、エキサイトしたり、こういう引きの写真なんかも画になるというか。長玉、真ん中、ワイドとか、意識としても勿論織り込んでいくわけだけど。あと一番バチンと来る時に、どこに居るかということ。そういうことだったと思うんですね。
戦場とは全然違うでしょうし、戦場は知らないしやりたいとは思わないけども、そうだったらどういうふうに撮るだろうな、どんな写真にするだろうなと思うんです。これはある種の戦場でもあるし、若かったですし、動いただけというか、撮りまくっただけというか。だからもちろんフォーカスなんか無い写真もあるし。露出なんかもあってないのもたくさんあるし。
テレビのほうは当時は泊まりがけで行っているから、三里塚の民宿だか旅館にモノクロのテレビがあってそれを撮ったり、東京戻ってきて自分の家で撮ったり。同時代っていうのは関係あるのかないのか。周恩来なんかも直接は関係あるのかないのか、遠因としては関係あるとも思えるけど、佐藤栄作さんとか、中曽根さんとか、水俣事件の人とか、東大総長とか、テレビに出てくる顔として撮っているんです。だからテレビの写真っていうのは三里塚編においてかなり撮っているんですね。」
 
北井「写真集の中でも結構多いですよね、僕はこれがリアリティがあったような気がする。70年代前半のリアリティでもあるし。」
 
加納「やっぱり実物撮らないとまずいなって、だけどテレビ撮ることも嫌いじゃなかったんですよね、報道の人じゃないとどうしたって寄れない画角とか、国会の中での表情とかズームアップしてそういうのをしっかり撮ってくる。それであの頃ちょっとテレビを撮るっていうことが一瞬あったような気がする。」
 
北井「だけど、実際にテレビ見てるとどうってことない報道の映像なんだけど、こういうふうに誰かが、加納さんが介入してそのテレビの画面を映すとやっぱり加納さんの写真になるよね。」
 
加納「今の報道でも、色んな情報の中から、それこそネットの報道もありますから、そういうので色んなドラマが作れると思いますよ。時代の表し方、国境の表し方、民族の表し方、闘争の表し方、人間の限界、色んな表し方がありますから。いってみれば単に複写ですよね、著作権もありますから、相手によっては問題があることもあるかもしれないけど、そこでそれを取り込むということは、私はそれはひとつの映像過失論だから、事によってはそれは係争したっていい事だろうとも思えるんですけどね。」
 
北井「今年夏頃からシールズとかね、すごい問題になって、実際に参加はしなかったけど、TVでよくみて意見は聞くようにしていたんですけど、いわゆるこの時代と違って非暴力ですよね。ああいうのはどう思います?」
 
加納「時代が違いというんですかね、僕はあのやり方がよくなくてなんて全然思わない。今の時代のありようで、いいと思うんですけど、やっぱり時代背景、時代のバックグラウンド、北井さんが農民の方を、要するに闘争の原点とか、下敷き、土台や、グラウンドが何にあるかって捉えることは非常に貴重なことだと思う。三里塚撮る方法論としての考えがちゃんとあっての事だと思いますけど、僕なんか軽薄に最前線だけへ行ってるわけですから、そのへんの作家性の違いを写真を見せて頂いた時に色々思いましたけど。写真に対するひとつのありようっていうか、考え方というか、思想って程オーバーなものではないですけど、やっぱりそれは代え難いものはありますよね。」
 
北井「僕は二年くらいずっと行ってましたけどね、だけど、自分の考えとしては闘争に参加しているんじゃないっていうのはハッキリ自分の中で決めていました。アサヒグラフなんかで時々やらせてもらってたんで、自分はあくまで写真を撮りに来たので、居続けることはない、いずれ去っていく立場で、あくまでも写真を撮りに来たっていうのをハッキリさせて撮ろうとは思っていたけどね。」
 
加納「東大闘争の中に入って撮っていた人も居たし、それもひとつのありようだし、最悪の例で居れば連合赤軍にくっついて回ればとんでもないものが写ったと思うんですけど。写真家が世の中のどこに立つか、ありようっていうのは重要ですね。かといえば森山さんみたいに、とにかく歩きまわって取り込んでいくというやり方もあれば、写真のやり方の違いっていうのもありますよね。」
 
司会「三里塚の写真を撮り終わったあとに、北井さんは三里塚の写真をすぐに発表し、加納さんは43年たってからの発表となりましたが。その辺はお二人はお互いにどのようにお考えですか?」
 
加納「北井さんのありようがシリアスフォトグラファーとしては非常に正常なありようだと思う。
俺はテレビがあったり小説書いたり、映画に出てくれだのディスク・ジョッキーやってくれだの、LPのレコード出してくれだの、色んなメディアと関わってきて、だから”FUCK”をやった時に錯覚された、錯覚したんだよね、世の中のオピニオンリーダーであるとか、マルチプレイヤーであるとか、たしかに僕は色んなメディアの人がどういう構造、システムの中でどうゆう感性がころがっているのかなってそういうのに興味を持ったんだよね。だからとにかくやってみる。
とにかく映画なんか、ひと夏の稼ぎはもうしてたし、いずれ映画は年取ったら撮るだろうから、若い役者の心情をやっておこうと。監督は田原総一朗で、清水邦夫なんかとつるんでた活動的な連中で、アートシアターギルドで撮った映画だよね、相手役が何故か桃井かおりさんで。僕の役は秋田明大が候補だったんだけど、明大が断って、誰か面白い奴居ないのかって、加納典明ってがなんかあれだぞって言って、事務所に監督と脚本家が来たんですよ。それでなんかじろじろじろじろ見られて、それでやってくれってことになったんですよ。」
 
北井「僕は日大全共闘だったから、明大はよく知ってるよ、彼は出ないだろうね、あんま喋んないからね。」
 
加納「秋田明大、加納典明ってちょうどいい題材ですよね、あの時代としては。『あらかじめ失われた恋人たちよ』っていう言葉の虚しさっていうのがテーマになっていて石橋蓮司が役回しで永遠と長台詞を喋ったりする作品で、カメラも手持ちで。」
 

 
司会「今回制作した写真集の表紙に加納さんの手書きの「怒」という文字が書いてありますが。この漢字は作品のコアなキーワードとして書かれたんですか?」
 
加納「要するに日本の社会というのは中庸の民と思えるんですけども、それと僕は反りは合わないんです。日本の社会っていうのは僕はやりにくい。生きにくいです、ギスギスして、出る杭は打つ、その典型みたいなこと僕も何度か色んな面であっているんですけども、じゃあアメリカなり何なりどこか行っちゃえばいいんですけども、やっぱりどこかそうもいかないというか。
もっとみんな怒れよって思いが若いころからずっとある。僕の一番強い方法論って結局写真で、どこかで僕のバックグラウンドになってしまう。
 
だからもっと写真の世界の人と会ったり、編集者と会ったり、当時は写真撮ると写るのに、テレビばっかり出てもったいないなと言われたりして、それは今考えるとたしかにそうだな、と。
僕はいろんなところで自分の実存というのを賭けてた、他へ行くっていうのはリスクと行くってことだから、リスクを含めてありようだと。それが俺の写真じゃないのって、勝手な予想ですけど。というような事がちょっとありますね。最近は写真に集中しようと、いろんな事やんないようにしようとしてますけど。」
 
北井「僕も三里塚のときは小川紳介に映画のサブカメラをまわさないかと言われて、「いいねいいね」なんて言われて調子に乗ってかなり撮ったけど、写真を撮っとけばよかたなって、でも若い時はなんでも興味あるよね。」
 
加納「そうですね、興味や希求心っていうか、それはすごくありますよね、何か話が降ってくれば、行けばなにかあるだろうと。」
 

 
司会「二人の三里塚、作風は違いますが、何かお互いに質問ありますか?」
 
加納「北井さんの「三里塚」、「村へ」など、色んなもの見せて頂いたけど、やっぱり俺には撮れないよね、そこに身をおいて心を静ませて、しっかりモノを見てって、それと同時に感性っていうのはスピードで、直感を含めてどんどんまわっていくわけだからどんどん撮っていかれるんでしょうけど、そのへんの世界の受け取り方、感覚感性を始め、受け取るものが全然違うわけですから、それがどこかすごく羨ましくもあるし、俺もこれくらい落ち着いて写真撮れないのかよって見てて思うし。やっぱりちゃんと撮ってるなあとか、もちろん色んなシリアスフォトグラフィの写真はよく見ますから、やっぱり写真のなんたるかを思うこといっぱいあるし、刺激になるし、やろうと思っているし。
北井さんの写真は濱谷浩さんともまた違うし、写真って、土門拳、濱谷浩、木村伊兵衛、秋山庄太郎、あの時代と、その後で違うじゃないですか、VIVOが出てきたり、北井さんが出てきたり、変わってきましたよね。僕はもう、世の中と格闘してきたというか、僕はすっかり写真っていうものが、明らかに疎かになっていた時代ですし、彼らは彼らと割りきっていたんですよね。」
 
北井「60年代中ごろから、反抗的な人間が写真家になることが多かったですよね。」
 
加納「僕なんかその最たる例で。」
 
北井「加納さんもそうだし、森山さん中平さんとか。それまではカメラ持てる人が結構なお金持ちの家の人じゃないと持てないっていうのがあったから、どこか紳士的な人が多かったですよね。
僕は写真を始めてすぐの頃からずっと人の生活とか、人の生活の跡に興味があったんですね。だから日大のバリケードを撮っていたときも、そこに転がった歯ブラシとか、タオルぶらさげてたところとか、非日常のバリケードの中の空間が日常化していくところとか撮ってみたいなあと思ってて撮ってて。三里塚でもやっぱり日常的なことに興味があったよね。」
 
加納「コンテンポラリーフォトグラフィと言われた時代がありましたよね。」
 
北井「僕は三里塚に一番行きたいなあと思ったのは、パリを撮っていたアジェみたいな写真家になりたいなあというのがあったんですよね。だからそういう目で三里塚を見たわけですけどね。僕が学生運動やなんかを撮り始めた頃は報道写真の時代だったんですよ。」
 
加納「そうですね。」
 
北井「報道写真と商業写真みたいな。俺はどうも報道写真っていうのは肌に合わないっていうか。自分は安全なところに居て、何か事件を撮っていくみたいなことはどうも嫌で。やっぱり自分も何か主張できる事件の渦中なり何なりの渦中に居て、その中を撮っていくっていう事じゃないと、あんまり自分のやるべきことでもないのかなって。それで学生運動も三里塚も撮ったんですね。だから生活を撮ったようでもあるし、生活していくために起こってきた闘争みたいなのを撮ったというのもありますね。」
 
加納「言葉で位置づけるべきじゃないかもしれないけど、そういうものの事象のグラウンドに隅々まで撮られたというか、そのやりかたというか。僕はその踊っているごく一部のものを、象徴的なものを、求めてるのはインパクトの強さというか、社会に対して刺さるものというか、そういう意識が強かったですよね。それぞれのありようだから、どちらがどうという事ではないんですけど、その辺は受け取る方の問題で好きにして下さいというしかないんですけどね。」
 
北井「僕もね、こういう三里塚なんかを撮っていて、そのあと村へなんかを撮って、で、やっぱ加納さんとかヌードもいいなって、やってみたいなって気持ちが結構あって、そうしたらカメラ雑誌の編集者の企画で、普段ヌードを撮らない写真家がヌードを撮る企画があったので、頑張ってみようかなって思ってやったけど。」
 
加納「ありましたね、森山さんなんかもそうじゃないかな。週刊プレイボーイなんかで。
平凡パンチは加納典明がやっているから、じゃあ週刊プレイボーイは森山大道で。加藤哲夫さんって編集者がそんなこと言っていましたね。」
 
北井「それで、モデル探しとかもやったんですよ。アサヒカメラの編集部に行ったら、当時顧問だった木村伊兵衛さんがよく居たんですよ。「こういうもの頼まれて困ってるんですよね」って言ったら、そしたらあの人が「北井さんそれは、女が裸だったらカメラじゃないでしょ」って。」
 
加納「あの人らしくないですね。」
 
北井「それでなんか拍子抜けして、やっぱり駄目だったよ。無理して撮ったのもあるけど、僕のヌードってのはなぜか売れないし。似合わないのかな、その人その人の持ち分みたいなのありますよね。」
 
加納「僕はもう挑発ですよ。」
 
北井「それがいいんだと思う。」
 
加納「撮っていて自分で気持ち悪いなっていうのもあります。あるモデルの子が薬をかなりやる子で、彼氏が獣姦の写真を撮っていた人で、やっぱり彼女も精神的にかなりあれだったんだよね。撮影も楽じゃなかったんだけど。五右衛門風呂にくくりつけて、(撮影への)道中イカの小さいのを売ってたのがちらっと目に入ってたんですね、それを助手に買ってきてもらって、五右衛門風呂に浮かべて撮ったんですよ。撮りながら気持ち悪いな、これって。一村哲也さんと、立木義浩さんと僕で出した『春画集』に1ページだけ掲載されてますけどね。
撮りながら「いいのかな、これ。」ってのもありましたね。撮影って言ったらひどい事もやってましたからね、国立公園に火を付けたりね。後先考えないんですよ、崖からジャンプして海へ飛び降りてる画が欲しくて、ヘアが駄目だから前の晩にモデルのヘアを剃ったり。そんな撮影を随分しました。」
 

 
Q&A
 
Q「70年前後、学生運動時代、なぜ三里塚に行ったのですか?東京でも全共闘運動などがものすごく盛んだったなか、なぜ成田まで行ったのでしょうか? 」
 
加納「ウチの親父が共産党員だった時代があって、藝大の前身の東京美術学校に行っていたんですね、その時にマルキシズムが心ある青年の聖書だったわけで、そういう父親で、言ってみれば絵描き崩れなんですね。そういう父親が自宅で夜な夜な図案を描きながら、ヒトラーやスターリン、レーニン、マルキシズム、弁証法、雄物論とか色んな歴史の話をするわけです、ちょっとインテリだったんですね、そういう中で当時、吉田内閣やGHQから、時代の構造を見ろとよく言われたんですね、そこから現象を図れと。世の中の受け取り方と世の中に対してどういうポジションをとるか、親父の教育がずっと僕を縛ったというか支えたというか、それはありますね。ベトナム戦争を始めサイケデリックとか、文化的にも非常に向こうのものが入ってきた時代で、面白くもあったし、混沌としたものもあった、そういう中で社会問題は色々あって、まあ気持ち程度といったらいいんですかね、僕はやっぱり左の人を応援しようというのはありますね。だけどやっぱりやってる事はノンポリですよ。旗振って歩いたことも、デモしたこともないし。だけど今色んなドキュメントや解説、公文書があるなかで、そういう中でスターリンがやった事とか、日本の舞台が中国韓国でやったこととか、色んな事が明らかになって来ている、そういう事と今の日本の現実とのコントラストを考えると何も変わってないじゃないかというものもありますし、かと言って写真で何かが動くとかいう事もないでしょうし、でも写真っていうのは思想的なものが意識下の中で写り込んでいくものと思います。あんまり思想的なポジションから撮らない方がいいと思うんですね。無意識で撮っていったほうがその時の僕の実存、感性、直感力そのものが撮っていくでしょうと。それそのものが結果として散りばめられていくということで、答えになっているでしょうか。」
 

 
加納さん北井さん、並びに当日ご来場くださった皆様方、誠にありがとうございました。
また今回は都合上、一部編集させて頂きました。禪フォトギャラリーでは今後も積極的に作家を招致してのトークイベントを開催していく予定です。
 

 
関連写真集 :
加納典明『三里塚1972』(禪フォトギャラリー刊 2015)
北井一夫『三里塚』(ワイズ出版 2000)

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