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韓国・平昌五輪で考えた 国家間競争のアホさ加減
2018/03/05 10:26 AM
 韓国・平昌冬季オリンピックがようやく終わった。 確かに羽生選手をはじめ、選手たちはよく頑張っていた。 だが、相変わらずと云うか、メディアの大騒ぎにはウンザリだ。 ニュースとして結果報告だけで充分だ。 今回に限らず、日本の日本的報道には、根本に「伝える」という本質から逸脱した、情緒滴る要素が多過ぎる。 なんで日本人はこうも情という、個人の内面の有り様を、公的な場に欲しがるのか。「ヤワ」としか思えず、 なんだか気持ち悪い。もっと普通に、恬淡とした伝えが欲しい。日本という場の、社会通念、常識、価値観、社会性への疑義を思う。260年間にわたる封建制のDNA呪縛がいまだ日々、意識下にあるのか。お上御尤も、一億総○○、赤信号……など、自動律の不快を感じ、 意識できずにいる此の国の“普通”を、検証し続けるべきだ。
 話は飛ぶが、こんな事象がある。 とある小学生の野球チームの話だ。監督やコーチはボランティアなのだが、 練習や試合時に各選手を呼ぶのに、名前を呼び捨てにしていたのを見たか聞いたか、その子供たちの親が監督に、「うちの子を呼び捨てにしないでください。家ではクンやチャンづけで呼んでいますから……」アホも此処まで来ると言葉がない。なんて環境に日々いるんだ、 此の子たちは!と思わずにいられない。子供が育ちゆく中で、最も重要なのは環境だ。スポーツに限らず、それぞれが成長して形作っていく“大人”としての有り様は、子供時代の集約、反映、具体だ。ヤワでアホな親を持ったら、いかに優れた遺伝子を奥底に持っていようと、人として浮かばれることはない。争い、競争するという場は、文字どおり、精神と肉体への練磨を如何に積み重ねるかの場だ。スポーツも、結局は自己への闘争以外の何物でもないことを、ヤワでアホな親たちは知るべきだろう。
 一方、金メダルを取ったときの羽生選手の汗と涙と喜びと戸惑いが交差する表情は、己に尽くし切った人間の美しさに満ちて、 極を極めた人間の顔には見事でした!と静かに喝采を送りたい。
 しかしだ。 オリンピックなんて前近代的なイヴェントはなくて良い。大なり小なり、FIFAやIOCはマフィア組織に違いない。幾度となく摘発を繰り返したところで、あまたの国の人間関係が生む、悪なる影が消えないのだ。第一に、五輪のマーク、つまり五大陸をあらわし、人種・ 国境をもとに競争するというシステムが問題だ。一見、良さげに映るかもしれないが、もはや国を背負って立つは古い。デジタル、AI、 時代に世界を見渡し知れば知るほど、民族、国家、国境とは何なの かと考えざるを得ない。
 今回のオリンピックは朝鮮半島という極めてシリアスな場での開催だった(なぜ歴史的に、半島という地理条件が争いを生むのか、ヴェトナム半島、バルカン半島、イベリア半島、と史実が問うている)こうした緊張関係の素因は、大国のエゴに違いなく。民族とは、国境とはなんなのだと、人という種の愚かさを思う。
 とはいえ、かく言うわが国は、アメリカという、 たかだか200数十年の歴史の寄せ集め人種の国の、犬だか、ハワイの西にある州だか、、どう見たって独立しているとは政経に民度に思えず、上っ面の辻褄合わせに終始している。
 オリンピックに限らず、難民問題はヨーロッパに長きにわたる混乱をもたらし日本も何れ拘らずにはいられない。まして此れだけ高齢化社会が現実となって来て労働人口不足は、 一時前の就職難がウソのような求人難に、いくらAIを云々としたところで、人間が肉体を使う職業が全てなくなるとは考えにくい。そして、日本人のみで肉体労働がまかなえるとは、この先考えられない。つまりは、外国人労働者をどんどん入れて行くしかない。
 今のこの島国の現状は、一民族で、ほとんど鎖国状態だとしても、民意レベルでの開国が、まずは要るのではないか。当然、犯罪を始め、諸事問題が多々としても、それ以外に出口はないと思える。だが、オリンピックは人間の肉体と精神の競争であり、争いではない。言うまでもなく、人間ゆえの一番の悪といえば、戦争だ。地域戦争や難民問題と、オリンピックを一緒に考えはしないが、 人間が、人が、国家という立場になって発する欲望は限りなく続く。
 バートランド・ラッセル著『宗教から科学へ』ではないが、 宗教と称し科学と称し、この星を壊し続けている人間。ヒットラーや自国民6000万人を粛清したスターリンなどは問題外だが。アフリカやアラブ諸国の国境が、 地図上で真っ直ぐに線引きされているのも、かつてのイギリスを始め大国のエゴの具体として残っている。国・民族という枠組みは、人口問題としても早々立ち行かず、民主主義・資本主義のシステム自体の限界が来つつあるとも思えてならない。
地球の寿命は50億年と言われる。その頃、果たして人類は生存しているのか。依然と民族・国・国境と云う線引きの中にいるのか。根本に於いて、人間は相変わらず単なる欲望する生物でしかないのか。空の果てから覗いてみたいものだ。

週刊大衆増刊「ヴィーナス」4/3号掲載の連載より引用
弟子入りで人間を学べよ「プロの現場の感性世界」
2018/02/06 02:50 AM
「寿司職人が何年間も修行するのはバカ」
また〝彼〟――ホリエモンが、こんなオカシナことを言ってるようだ。 最近は、良い専門学校もあるし、寿司を握るだけなら、3か月でマスターできる、と。あとはセンスとスマホの情報があれば、数か月で一流 になれる・・だって? AI 信者とはこういった奴らということか。
確かに近未来は直ぐそこで、AIが人の職域をはじめ、日常のすべてに関わってくるのは間違いない。人間と機械がどう関係していくかが、単に産業革命うんぬんでは済まないレベルに行くだろう。そこで人間であることの戸惑い、彷徨いは計り知れない。ゆえにだ、人という実存の有り様を現在、過去、未来にわたり意識、認識し、想定を超えた現実をいかに受け取り、取捨選択していくのか。人間が人間を、かつてない問いを突きつけられる時が来る。
堀江にこだわる気はサラサラ無いけど、彼は新人類でも何でもなく、人間実存を知らないだけなのでは。外側だけ、現象だけを受け取り、己と云う内側、自身の奥地に面と向かったことがないのではないか。やはり単純にも、本質的にも、まずは人なる己を知ることだな。
俺は、高校を出て、名古屋で写真家の助手をやって基本技術を習得し、東京に出て写真家・杵嶋隆に師事して、フリーになったのは21歳。つまり修行時代は、18から21歳くらいの時期だな。
そのとき、俺にあったのは、「東京に行って一番の写真家になる」という強い意志だけだった。 そのためには、プロの技術をしっかり覚えたいと思って、飛び込んだわけだよ。
今でもよく覚えている。名古屋の先生のところで、現像に使う希酢酸に、「指先をつけておけ」って言われたんだよ。すると、指先が茶色になって、指紋が薄くなり、これで、フィルムや印画紙に触っても指紋がつかないようになる。
他にも、陶磁器やグラスを並べて、静物として撮るときのことだよ。レンズの長短にもよるんだが、レンズを通してみると、外側に置いてあるグラスが外側にわずかに倒れて見える。これを周辺収差と言う。
そのほんの0コンマ数ミリを、グラスの底に何かを挟んで真っ直ぐに写るように調整するんだ。
紙だと写り込んでしまうし、じゃあ何を使えばいいのか? 先生も俺も一生懸命になって発想する。
まあ、こんなのはほんの一例にすぎない。要するに、プロの領域は普通では考えられない技術の展開が必須。 それもこれも感性感覚世界の奥地は無限なわけで、限りなく湧いてくるイメージに辿り着こうと、息をするのも忘れるような苦しくも楽しい時が連綿と続く。トップに至るには天性といかに深度を持った技術を持つかに尽きる。そういうことを、2人の先生から徹底的に学んだわけだ。
俺には「一番になる」っていう、誰よりも強い意志があったから、全然、ツラいなんて思わなかった。 18~21歳。一般的には遊びたい盛りの年頃で、友達から「加納、出てこいよ」って誘いの電話も実際にたくさんあった。 だけど、俺は一切行かず、1日の半分は、酸とアルカリの饐えた匂いの暗室で過ごしていたよ。
東京で師事していた時は、先輩に4~5人の助手がいた。気がついたら、先生が撮るもの以外に依頼のある写真は、先輩たちを差し置いて かなりを俺が撮るようになっていた。 それが仕事だなんて意識もなく、ただ面白くて興味津々でやっていた。
言うまでもなくフィルムは、ただの化学物質。だけど、俺の中ではそうじゃない。写真漬けの濃密な日々を過ごす中で、完全に肉体感覚化していったんだよ。体に沁み混みフィルムが曰く言い難しな実在化をした。
それが分かったのは、俺が写真家として一流とか言われるようになった頃だったかな。 フリーになったときは、同じ世代にもスゴいものを持っているヤツがいっぱいいるんだろうと思ったが、なんのなんの。 第一に技術的に俺以上のものを持っている奴なんていなかったよ。何でも、俺が一番よく知っていた。当時カラーの現像までやっていた若い駆け出しはいなかった。
要は、つまりは理屈じゃないんだよ。感性に、どれだけのものを蓄積したか。
頭で覚えたり、考えたりすることは、余程のバカじゃなければある程度、誰でもできる。スピードの差が多少あるくらいのもんだろう。大事なのは、それを超える、理の先にある感性世界。それは、教えようと思っても教えられないし、ましてや3か月の専門学校なんかじゃ、 どうしようもない。プロの現場に張り付いていれば、知らないうちに自分の感性が感応する。感受していく中で、体に入ってくるものなんだよ。
若さの状況感応力は半端ではなく目の当たりのダイナミックな全てへの感受力がもたらす其れこそ人間力は己を知り他を知る、そうやって“人間”を知ることができる。
たとえば、自分の家を2人の建築家に頼んで作らせるとする。1人は、50過ぎの熟練の建築家。もう1人は、若くて尖がった新進気鋭の建築家だ。
完成し、まずは熟練の建築家の作った家に住んでみた。どうってことのない家だが、妙に落ち着いて居心地がいい家だった。
一方若い建築家の作った家はどうか。見栄えは良く、派手なアイデアに溢れていたが、住んでみるとどうにも落ち着かなかった。
どちらに住むべきかは、云うを待たない。
詰まりはどれだけ“人間”というものを知っているかと云う訳だ。
これは建築家、ル・コルビジェが言った一つの例え話だが、人間、50を過ぎないと人間を知り得ないとでも言いたかったのかな。
人間をどれだけ知っているか。それは、社会の根本であり理解であり、時代の理解にも繋がってくる。
この先、AIに転んだかに見えて来るだろうが、人は見えないところでの強さは簡単には人間を売ったりはしないはずと、時代の頁を捲って行きたいものだ。
結局、堀江はまだ目先、足元しか見えてないんだろうな。高感度鳥瞰レンズで世界を受け取り、いかに営為するか、いつか社会的円月殺法を伝授しようか!


週刊大衆増刊「ヴィーナス」3/4号掲載の連載より引用
デブが多過ぎ相撲界に喝!
2018/01/10 06:38 PM
 テレビをつければ、横綱・日馬富士による貴ノ岩暴行事件ばかりがクローズアップされている。こういう問題が起こるたびに思うんだが、相撲協会ってのは、いつまで経っても変わらないんだな!
 彼らの体制は、とっくのとうに、時代錯誤甚だしいもの。相撲しか知らない理事たちは、バカの一つ覚えのごとく、古典的なやり方を続けていくことしか考えられないんだろう。
 昔、俺がワイドショーのコメンテーターを務めていたとき、大相撲の八百長疑惑を番組で扱ったんだよ。俺は、八百長があるともないとも断定はしていないんだが、それなりに触れて話をしたんだ。
 そしたら、「加納が、八百長があると言った」と伝わったらしく、相撲協会から「加納を呼べ」と番組に連絡。担当ディレクターが、VTRを確認しても、やはり俺は何も断定的なことは言っていない。だが、局として、相撲協会とのつき合いもある。「申し訳ありませんが、一緒に行っていただけませんか」と言うので、仕方なしに行ったんだよ。
 理事長室に、理事たちが雁首並べてお出迎え。なんだかギャーギャー言ってたよ。でも、俺は言ってもないことだからな。「八百長があると思うのか?」って聞かれても、冗談じゃねぇぞ、相撲取りごときに負けてられるかと、スキあらば、猫騙しか張り手でもしてやろうと思ったけど、表向きはしら~っと、「はい」も「うん」も言わずに、聞いた振りもしないでいたよ。
 そしたら、「コイツに何を言っても仕方がない」と思われたんだろうな。通り一遍のことを言われて、解放されたよ。どうしようもない相撲界の体質を体感したわけだが、それは今も変わらんのだろう。
 貴ノ岩の師匠である貴乃花親方の頑なな態度の背景には、そんな相撲協会に対する不信感や、改革への思いがあるんだろう。ただ、協会よりも、警察への届けを先に行い、協会の協力要請を固辞し続ける貴乃花のやり方ってのも賛成できない。
 先の理事長選で八角親方に負けて、閑職に追いやられた。それで、スネているだけじゃ話にならない。
 それに、貴乃花親方は、モンゴル勢の朝青龍の相撲じゃないが“勝てばイイだろう”的な相撲。白鵬を頭としたモンゴル勢が集う“モンゴル人互助会”なる集まりがあり、ゲスの勘ぐりをすれば、星の貸し借りとかへの疑義を感じていたのでは?
 貴乃花はかつて、結婚、家族の問題で、マスコミにオモチャにされた経験もある。拒絶したいのも分かるが、子供が駄々を捏ねている感じだ。もっと人としてプロになれよ。事を鳥瞰する眼を持てよ。
 確かに、協会に先に報告をしていたら、親方同士で話をつけて〝詫びを入れさせます〟と内々に処理されて終わりだろう。そうさせないために、警察の捜査を優先させて、すべてを表に出したってことだよな。
 それも一つの考えだけど、彼が、もう一つ大人で、本気で理事長を目指して、相撲界を変えたいという思いがあったら、やり方は違うよな。
 ああいう古典的な団体の中で組織を改革するなら、それだけの人間力、人を統べる力、先を読む想像力と、色んな力が必要になってくるが、貴乃花はどれも欠落しているよ。
 実際、今回、いったい誰が得をしたんだ? 騒ぎ立てる、週刊誌やワイドショーを喜ばせただけだろうに。
 本当は、貴乃花は株を上げるチャンスだったんだ。この事件を内々に処理されたら、面白くはないだろう。でも、理事や親方衆に、大きな貸しとなる。それを足掛かりに相撲界を掌握し、「次は貴乃花だ」と声を上げさせてこそ、改革が始まるが、そのへんのことを秤にかける度量がない。
 勝負事に、自分で負けにいっているんだ。あれじゃあ今後も人望を培えないだろう。
 もちろん、実際に暴行をはたらいた日馬富士、それを見て止めなかった白鵬たちも、ひどいもんだ。世間一般で言えば、人を殴るのは犯罪なんだから、刑事責任を問われて当然。
「礼儀礼節を正すのは先輩の義務」なんて、よく言えたよな。「殴ろうと手に持ったものが滑って落ちた」ってことらしい。滑ってんのはお前自身だろ?
 そもそも、最近の大相撲はデブが多すぎる。ヒザを悪くする力士が多いのは、そのためだろう。技量のある力士も減っていて、体重勝負の相撲じゃあ、ちっとも面白くない。
 第一、サポーターだらけの相撲取りばかりってのは、見ていていかがなものかと。相撲の始まりには見世物として歌舞伎とも繋がりがあったはずだ。相撲美ってのは無理か……でも栃錦や若乃花(初代)時代の相撲は、二枚蹴り、けたぐり、内掛、呼び戻しなんて派手な技がバンバン飛び出して、本当に面白かった。
 今の、体力で押し出す、寄り切るばかりの相撲には魅力を感じないよ。
 技の前に“気”だよな。一番見たいのはそこ。見たことのない、異常な闘争心を目の当たりにしたい。ガチンコ相撲、そんな力士を見たいよ。
 それと、これだけ怪我人が増えてきたのも問題だ。体重制限の導入を検討したっていい。
 年間で6場所、1場所15日開催、土俵の大きさ、部屋制度、一門のあり方、ちゃんこ料理……全部、一度、見直す必要があるよな。
 そもそも相撲は、“チョンマゲとまわし”という文化で、あらかじめ現代とはズレている。それだからこその良さ、守っていくべき伝統もあるんだろうが、一方で、世の中に必要とされるには、時代との折り合いをつけていくしかないんだろう。
 相撲はまず、幕内力士の大勢がモンゴル人で、この時代、人種云々は元より通用しないが、日本の国技と言うなら、そこをどう考えるのか、あまりに日本力士はもちろん、日本人の弱さとお人好し振りが気にならないのかと。
 相撲協会の理事を相撲上がりは三分の一にして、マネージメントはじめスポーツ知識人というか、プロの人間を入れることだ。力士も、余計な贅肉を削ぎ落とす必要がある。デブ競争ではない、ガッツと技の競技を望みたい。
 それにだ、白鵬は、双葉山の横綱相撲に敬意を表しているが、勝てないとなると張り手、カチ上げと、品格はどこへやら。云いしてた、後の先、は何処へ行ったのだ!昨今の白鵬は、力士、横綱、人として首を傾げざるを得ない。何か気持ち悪いよ、お前!

週刊大衆増刊「ヴィーナス」2/1号掲載の連載より引用
連絡はメールでだと?『電話野郎』批判に喝ッ!
2017/12/31 06:13 PM
 なに? 最近は、人に電話をするのが失礼な行為と受け止められていて、突然、電話してくるようなヤツは〝電話野郎〟と呼ばれて蔑まれるらしいじゃないか。
 ホリエモンこと堀江貴文氏も、「電話してくる人とは仕事をするな」などと言っていて、賛同する者が多いんだって?
〝自分の時間〟を奪う、際たるもんが電話だってことらしいが、なんて心小さき、感性小さき、心狭きヤツらの話なんだと思うね。
 何にしても、“自分の言いたいことが伝わりゃいい”っていう手前勝手な前提の話で、電話だと言いにくいけど、メールだと言いやすい、聞きやすいっていう、弱者の戯言にしか聞こえないよ。
 要するに、メールでしか交流を持てないヤツが増えていて、そういう連中が〝今の時代は、そういういうもの〟と錯覚してラクに過ごそうとしているに過ぎないんだろう。知らず知らずに自ら失われて行く人間力をなぜ認識出来ないのか。
 程度の悪いAI(人工知能)か! 現代、そんな“ゴミAI”みたいなのが増えてって、いいわけがないだろう!
 だいたい、日本語というものは、非常に繊細なもの。言葉の裏側に隠されたニュアンスっていうものも多い。その隠された部分が、表の10倍あることもある。
 それをメール、文章だけで言葉にするのは非常に難しい。夏目漱石じゃあるまいし、語彙や表現力をちゃんと持っているヤツがいるか?
 人間は、どんなにつまらない通信でも、相手に思いを馳せるもの。使う言葉はもちろん、語気や間合い、息遣いからも「なんか嫌だな」「いいな、俺もああしたいな」と、色々と伝わってくるものがある。
 人の人品骨柄を含めて「肉声」で伝えることが、通信の本質だろう。
 事務的な連絡、ビジネスの連絡でも、数字の話だけじゃなくて、そこに人間であり、肉声があってほしいと俺は思うわけだよ。
 メールより、電話でやったほうが、温度が伝わる、気が伝わる、輪郭やタッチが伝わるだろう。
 受け取るほうも、ニュアンスを受け取る気もないというのは、精神的な許容がなさすぎる。
 メールだと、お互いに平等に伝えたいことが伝わるって?
 それも勘違いも甚だしいよ。平等なんて、永劫未来、過去も現在も過去も未来にもないからな!
 ただ、電話での直接的なやりとりになると、行き違いもあれば、感情のぶつかり合いもあるよ。
 俺なんか、相手の話を聞きながら、自分が言いたいことを喋り出すのは当たり前。
 おそらく相当ヤリにくいヤツだろう。
 自分でも、時々、「いけねぇ、いけねぇ。相手はうんざりしているな」って省みることもあるけど、それでも自分から湧いてくるイメージやメッセージをどんどん言っちゃうわけだ。
 決して褒められたことじゃないけど、そのやり取りの中で伝わるニュアンスや本質というものが間違いなくあるし、相手と関係する中で、知らない自分に出会うこともある。そういうものの積み重ねが、最終的なビジネス判断にも、大きく関わってくるんじゃないのか?
 結局、生身の人間を知らないことには、ビジネスだって始まらないんだよ。
 そういう生身の味を知らずに、一拍置き、二拍、三拍置いて、無難なやり取りをすることの、何が通信なんだよ!
 人間の実存ってのは、何かとアナログで関係しないと立ち上がって来ない。
 カメラでも、デジタルってのは確かに良く映る。だから、シャッターを押す人間が、いかに世界を感じて取り込むかという“人間力”の勝負になって来ていて、アナログを知っているほうがずっと強いんだよ。
 それと、メールか電話かの問題も、かなりイコールな部分があるよ。
 人間の生の良さ、温度、気配、空気は、絶対にAIには作れないもの。人と人が関係して発せられるものは多様にあるんだ。
 今日の話なんだが、俺の携帯に、登録してない番号から電話がかかってきたんだよ。「誰だ?」と思いながら、「もしもし?」と低めのトーンで出たら、昔、世話になった人だったわけだよ。
 そしたら、「あ、お元気ですか〜」って、俺も急に声が変わる(笑)。その豹変ぶりを隣にいたマネジャーは笑っていたけど、それでいいんだよ。
 一連の立ち振る舞いで、色んなことが伝わるじゃん。こいつ、コロッと変わったな、自分にはそれだけの認知をしているんだな……と、相手も分かる。
 どう受け止めるかは相手が決めることで、どうだっていいじゃない。そのくらい裸でいろよ、根性を持てよ、と思うわけだよ。
 相手が不機嫌そうな声を出す、自分が思ったような反応をしてこない。そんなこといくらでもあるよ。
 世界は自分じゃない。言うまでもないが、全員が、自分とは異なるヤツなわけだ。
 だから、相手が自分にとって、心地よい回答をくれるわけがない。そう思っていればいいわけで、そいつらの特色を楽しめばいいだろう。
 それを、自分の狭い世界観の中だけで生きようとするから、〝電話野郎〟なんていう泣きごとを言い出すんだよね。
 実際、俺にくる仕事やその他の連絡も、今はほとんどがメールで送られてくる。電話したがらないヤツも多いし、こっちが電話しても出ないヤツも本当に多くなってきた。そういうヤツには、俺はしつこく電話するし、メールの返信に、「細かい部分は伝わらないから、電話してくれ」って書くからな。
 もちろん、メールやLINEの全てを否定する気もないが、全部メールってのは違うだろう。少なくとも、これはメール、これは電話でやったほうがいいという図式、概念を自分の中にしっかり持てと強く思うね。兎に角どうしてこうも人間が弱くなってるのか、ネガな奴等が何の問題意識も持たず己を繰り返してるのか、合理性とかコンビニエンス等の家来に成り果てているのか。
要は生まれた時代は選べない人間が其の時代の文明と如何に拮抗するかと云うことだ。
 だいたい、ホリエモンの言うことに賛同するやつらってのもどうかしているよ。
 彼の経歴、環境、仕事の内容までも、かなり特殊で、少なくとも、この電話の件に関しては、とても一般的なテーゼになんてなりえないだろうって。

週刊大衆増刊「ヴィーナス」1/4号掲載の連載より引用
プロ少なき政界に喝!
2017/12/31 06:08 PM
 先月末、衆院選が終わったが、このところの政治家の質の低下は嘆かわしいばかりだな。
  政治家ってのは、自分のやったことが、後世までどう尾を引くか、いかに時代の価値をつないでいくかっていう責任の問題ですね。要するに、生き方そのものが問われる。
 神戸市議との不倫がバレて騒がれた元SPEEDの今井絵理子。アクターズスクールのマキノ正幸社長が、「勉強なんかしてこなかった子。国会議員になるレベルじゃない」って、どっかの取材で言っていたけど、その通りだ。そんな連中を、出馬させたほうもどうかしている。
 だが、そんな連中に投票したのは誰だ? 貴方達だよ。まったく、天に唾しているようなもんだよな。
 秘書への暴言・パワハラ問題で自民党を離党した豊田真由子しかり、年下弁護士とのダブル不倫疑惑で民進党を離党した、山尾志桜里しかりだ。
 衆院選も終わって、今さらって話でもあるが、豊田のオバサンの、「このハゲ~~っ!」ってのは、モノには限度と云うより此れが国会議員かいなって世間は驚いた。正に人品これに悖るどころか議員以前の人としての問題だ。
「加納、お前がよう言うな」だって? 確かに、オレも相当ヒドかったな。
 オレの助手で、ハードワークに耐え切れなくなって、病気になった奴もいたからな。でも、写真をやるには、俺としてはそれくらいの緊張ゾーンが必要。そこに関しては、俺自身に噓はない。写真への一直線な気だったよ。
 実際に、「社会の常識が終わってから、俺の常識が始まるんだ」って周りにも言っていて、「俺が黒だって言ったら、世の中が白でも黒なんだ」ってやり方でやっていたからな。
 写真現場で、俺一人が緊張感を持っていても仕方ないわけで、チームで動いている以上、助手にも俺以上に緊張感を持てと。其れがないと 、俺が目的とする作品に携わるのは無理だということだ。
 俺の世界観は所謂一般常識では括れない訳で、あくまでの俺の精神の奥地で沸々と渦巻いている意識を超えたゾーンは、社会の常識や規範の輪郭を守ってやっていたんじゃしょうがない、嘗てない具体を、表現をとの苦悩は常人には図り知れない。要するに世間合わせの具体では自身少しも面白くないし、意味がないということだね。
 勿論アートだからって、何をやっても許されるなんてことはない。それは分かっているけど、それこそ、この連載でも話してきたように、許されざる次元だが作品のためなら国立公園にも火をつけたし、半端なことはやってこなかった訳だ。
 北海道の屈斜路湖の氷の上に裸のモデルを寝かせたこともあった。終わった頃には、モデルの背中が真っ赤になっていた。ハードな撮影が終わり車まで雪の中をモデルを背負って行く途中に気絶したのか突然ガクンと重くなったりと、今だったらやらないな、其れでもイメージする写真への道はひたすら、何があっても突破すると。
 ただ、こんな撮影につき合わせて大変だなとは思いつつも、欲しい世界があるからそれは脇目も振らず求めるよ。
 それは、俺にとっては絶対的必然。でも、世間的に見たら、間違いなく異常な世界でさ。
 正常な世界からアートができるのかって云ったら、それは失い。俺の奥地から湧き出る“異常世界”から出てくる唯一が具体してナンボと云うことだね。
 ところが、この豊田のオバサンってのは、あらかじめ最も常識を踏まなきゃいけない世界の人間だよな。確かに、怒られた側も緊張感に欠け、失敗やミスが多かったのかもしれないが、たとえ秘書や運転手で対してでも、アレは度を超えてモノには限度の極限を行ってる。
 語彙の選び方、相手の子供をネタにするやり方、歌にして聞かせるしつこさ……まったく執拗に陰湿で、こう云っちゃ悪いが女性特有の癖の超ダーク版だな。
 この人は、一生、消せないダークな勲章を得てしまったわけだから、もう終わりだよな。
 でもまあ、釈明会見に出てきたツラを見たら、その臆面のなさと、まあ、あれはタフで己が依って立つ地面が見えていないオンナだよ。
 こっちは写真家でさ、人がどんなに取り繕って見せたところで、その顔つきや言葉から、精神のありどころを見切るわけだよ。
 衆院選がなければ、もうしばらく潜伏していたんだろう。謝罪する気なんてサラサラなかったけど、選挙に立つ前にケジメをつけなきゃいけないから会見を開いたっていう、彼女の都合の“段取りごっこ”以上でも以下でもないものでしかなく民は見抜ていたと思うね。
 一連の騒動を見ていて、俺が一番思ったのは、旦那の顔が見てみたいなっていうことくらいかな。こんなのと結婚している旦那の顔をさ。そんなのは〝ゲス観(ゲスの勘繰り)〟でしかないんだけど、今やゲス週刊誌『週刊文春』もゲスを貫くなら、そこまで晒してくれよと思うよ。
 山尾ってのも、2人でホテルにはいたけど、「一人で泊まりました」って、一線は越えてないって主張らしい。だけど、世間は100%やっていると思っているだろうよ。言い訳する顔がやってますと言っている。
 こっちもさ、どうせなら文春は、行為の真っ最中の様子まで撮ってきて、始めてゲスを貫くって事じゃないの。
 と同時に思うのは、例えば“55年体制”の時代なんて、政治家の実態はもっとケタ違いだったということ。ヨゴレを使っての様々な裏工作だって当然だったし、田中角栄だって愛人がいたのなんて有名な話だし。
 ある大物政治家を転向させるために、その政治家の娘を誘拐して脅迫して党を移籍させたなんていう裏の事件まであったとか、、、。
政治家でもなけりゃ豊田選手も山尾選手も此れぐらいの事ごとは彼方此方に有るだろうし。今、騒がれていることなんて、ある意味超かったるいことだよな。
文春砲なんて、まだまだ、尻尾の掴み方が中途半端だろう。もっと上面ゴッコじゃない諸々の奥地をだよ、何がこう云った具体への必然なのか本質を探れと言いたいね。
 だいたい、現代には、精神と云う背骨に何を持つか、自分のミッションを貫いているかって意味で、〝こいつは違う〟って思わせる、ゴツイ奴がどの世界にも少ない。
 唯一、生まれたお主よ、 自分と云うミッションを生きているか!日々、喧嘩しているか。 責任を果たしているか。
 何処にも此処にも、本当にプロなる人間がいない中庸構造に、半端保守で上っ面関係だけで時代を先送りしてきた目先族、足元族が群れる“アマチュア社会”日本。
 豊田、山尾、達オバサンの件でも、改めてそれが浮き彫りになったと、俺は思うぜ。誰にも生きてる限り・己・と云うミッションがあるわけで 其れに正面から取っ掛かれば人生結構楽しい筈だがね。
其れにしても、其れにしてもだ !小池百合子の「さらさら」「排除する」は政治家にとって何が一番大事かを知らないのかと言いたくなる、政治家にとって最重要なことは・如何に人間を知っているか・だか百合子氏、死語だが「奢れるもの久からず」もいい処で結果・自死・を招いた。

週刊大衆増刊「ヴィーナス」12/5号掲載の連載より一部引用
20代はジャングルで暴れ 30代はジャンプせよ!
2017/12/31 05:59 PM
20代が、貯金に励むようになっているらしい。まあ、気持ちは分からないでもないけど、あまり良い在りようだとは思わんよ。
金は、自分が動くためのガソリンだろう。少ないより多いほうがいいし、使えば馬力も出る。それをタンクに貯めておいても仕方ないのではないか。老後のためを考えてなのか時代への不安なのか、予定調和を何歳まで 生きているかも分からんのに20代から意識するのか、と云うことだ。
俺に言わせりゃ、あまりに単純で些か稚拙とも思える。では、20代をどう生きるのか。先ず、 臆するな、考えるな、行動せよ。という以外ない。
「悩むのもいいが、其処から、どう具体するかが問題なのだ」
エンジンは何処まで回転するか、回るだけ回してみる事が出来るのが青年期というものだ。跳ばせ跳ぶ、と200キロと飛ばしゃあいいんだよ。
“社会”っていう海、グラウンドでもリングでも良い。好きなように泳いだり、走ったりして、身体を張った実存を賭けて自分を知っていくのが、20代が出来ること。 動けば動くほどいいんだよ。中途半端はダメ。もう無理!っていう果てまでトライし、自意識が遠のく域まで己に夢中になり、やることだ。
何の自慢にもならないが前にも話した、俺が、日光の国立公園内にある「戦場ヶ原」に火をつけたのが、まさに20代。秋枯れたススキに火をつけて、その中に裸のお姉ちゃんを立たせて撮りたくなった俺にとっては、周りがなんと言おうと、其の景色の中で浮かび閃いたイメージに強烈に惹き憑かれ「良いからやれ」ってやったんだ。 また、ある夏、真っ赤な海にドンと落ちていく裸の女のイメージが伊豆の海辺で沸いてきて、「この海が真っ赤だったら」となり 、助手やスタッフに伊豆中を駆けずり回らせ、赤いペンキを買い占めて海にぶちまけたこともあった。 確か、一斗缶で18本くらい集まったが、海を真っ赤にするには、5万トンのタンカーでもひっくり返さないと無理なんだよな。波打ち際が黄色く薄汚れただけだった。
でも、やりゃあ出来ると思い、直情一直線でやってきたよ。 そんな俺の元で働く助手たちは、いつも大変だよ。今なら、 間違いなくブラック企業って言われているよ。
まあ、当時も 〝サドマゾ事務所〟とは言われていた。 だけど、そうやって人とぶつかり、摩擦が生まれると、人間は何かしら呼応するんだよ。そこで何が溢れ、何がこぼれ落ちるか。「俺ってこんなヤツだったか」「俺ってこんなことも出来たのか」と、自分の知らない自分が出てくる。それも、そういう摩擦に出会わないことには、出て来なかったかも知れない。
要するに、ぶつかって、関係して、違う自分をたくさん認識することが、20代では最も大事なことだと思う。
じゃあ、30代はどうか? 20代の時に、しっかりと暴れていると、おぼろげながら、何かしらのターゲットが見えてくる筈。
つまり、未来を意識しだす筈なんだよ。 それは、閃きでもいいし、頭の隅で聞こえる小さな声かもしれない。 衝動として出てくる、いつもの行動、思考パターンの中に、未来への想いが現れるかもしれない。 それを具現化していくのが、30代のあるべき姿なんじゃない かと思う。 そういう意味でも、やはり、20代での行動、経験っていうのは、すごく大事だよ。 会社でもなんでも、ちょっとやってみて、「なんか合わない」「やりたいことができない」とか言って、すぐに辞める奴がいるだろ?あれなんか、愚の骨頂。ただ逃げ回っているだけにしか思えない。人生で重要なのは、逃げの生き方か向かう生き方か、なのだ。
そんな己用の好都合の社会なんて、有り得無い。 交わること、クロスすることを逃げてはいけないんだよ。
兎にも角にも関係を恐れない事、傷だらけでも良い関係を探し求め続ける生き方をするんだ。
人間は、とにかく社会という構造において、安全で、自由もコントロールも利く、自分のテリトリーに戻ろうとしてしまう。 帰巣本能が強い奴が多すぎる。
自己保身と云うゾーンから出ようと、極まで行くと、刺激もあるし、閃めくことも非日常な不安を感じることもある。 でも、半分解っていても、其処からなかなか飛び出さないのが殆んどだ。 実際、極というか淵の外は言ってみればリスクの海。極を越えていくことは、リスクをわざわざ背負いにいくことに他ならないものなんだ。
だけど、それが見え隠れしてもジャンプする勇気を持つ事だ。飛び越えるんだよ!
その経験は、必ず、自分の糧となる。明日とか、来週とか、 1か月後とかの糧にはならずとも、長いスパンで見ると、必ず糧になる。
30代後半、40代が見えてきたら、自信、勇気、プライドという、その3つを確信として、行動できるようになったらいい。 過信、自信過剰、大いに結構!むしろ、実はとても必要なものだとさえ思うよ。
我に臆するな。自己にも他者にも、 臆したら何も動かないし、一歩も前に進めない。
俺が30代で、「これはジャンプしたな」っていう経験は何かあったかって? 何だろうな、全部そうだからなあ。それが、俺の日常だから(笑)。
俺だって、ジャンプするのが怖いときもあるんだよ。でも、 必ずやってきたし、今後もそうだろう。
それとな肝心な事は、 時間は戻って来ないということも、よく覚えておいたほうがいい。過去は絶対戻らない。
悔いを残さないで、具体的に生きる事だ。やりたいことはやり、自分と云う個の切磋琢磨、阿鼻叫喚を具体的に残す事だね。
世間の評価なんてどうでもいいよ、世間用に生きない事。多少、人に迷惑がかかっても、自分をやりきる、生ききるんだよ。 だいたい、それが他人にとって迷惑かどうかなんて、誰にも分からないものだろう?そこに生まれる摩擦で、相手が何かしらの覚醒を遂げることも、十分あるんだから。
とにかく、20代、30代なんて、こんなに楽しい時はないよ。身体も動くし、自分で自分を如何ようにも創ることが出来るんだから。
人生のペース配分なんて考える必要は全くないぜ。 20代は、闇雲にジャングルで暴れていればいい。そして30代は、自信と勇気と誇りを持って、リスクの海にジャンプせよ!

週刊大衆増刊「ヴィーナス」11/4号掲載の連載より引用
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