許せん!
大津での少年飛び降り自殺事件について、その知る範囲での事実にあまりと云えばあまり、強い義憤を覚える。
メディアを通して知ることの出来る、事の順序を想像するに、まず少年が、44人記名のアンケートによると、ひとかたならぬイジメを受けていたという事実。それは集団暴行・万引き強要等々、尋常とは云い難い生活を強いられていた。
其の過程で教諭に泣きながら電話で訴えたという。
しかしイジメは止まず、自殺の練習をしろと強要があったと、16人の生徒達のアンケートがあると云う。
その果てに少年はジャンプした・・・。
どんな思いであっただろうと想像することさえ出来ない。
両親はその後10月に2回、12月に1回、滋賀県大津署に生徒達への聞き取りを元に被害届の提出を申し出た。警察の返事は「犯罪としての事実認定ができない」として受理を断った・・・。
今月初頭にこのニュースが流れ、自殺練習を同級生達が強要したと云うところに相変わらずワイドショーレベルのメディアがとび付き。その後、いかなるイジメ環境に少年がいたか、それを知った上での教諭の立ち位置、大津署の対応、そして教育委員会の記者会見、という流れにあると思う。
先ず、13歳で命を終えなくてはならなかった少年の心情を思うと耐えられない。そこで事の如何を考えてみたい。
イジメと云うのは、人間が社会を構成・構造するにおいて、歴史が証明するようにいくら人智を尽くしたところで無くならないと考える。
それは教育期間のみならず、社会へ出て大人になってからでも同様である。
それとこれは違うかもしれないが、日本人が社会を構成しだして以来、特に近代においては近隣諸国の民への・恥を知れ!・と云いたくなるような差別・偏見意識、日本人特有の暗黒資質を憶わざるを得ない。
生徒達が、集団で彼をイジメながら、其の加害生徒達の中でランクも当然あっただろうし、脇の方で、関わらない事には何時被害者側に回るかわからないといった生徒達もいただろうし、もっと遠くから其の事実を見て見ぬ振りをした生徒達、彼らの罪も直接加害生徒達と同等か、それ以上の質の悪さを思う。
少年は先生に訴えたとある、此の先生と呼ばれるこんな馬鹿に四の五の云うのももどかしいが、イジメを認知しながら笑っていたと云う、話にならない。
関係の中で こいつがキーポイントであったと思える。
教育という職業は、仕事という領域だけでは括れない世界であるということをわかっているのか。そして当然、警察へ訴え出た親に対し、受け取れないと返した大津署の警察官資質。
それは長崎県で起きたストーカー殺人事件と酷似している。
福島原発の東電を始めとした責任或る関係者達の腐り切った資質とも同じくであって。
お前らは人間を相手にしておるのか!お前達を食わせている民を、扱い易いロボットか部品と思っているのではないか。
何よりも先に声を大にして云いたい。警察官よ、人たれ。人間であることを願う。
そして其の先に澤村憲次教育長以下の大津教育委員会が、例によって例のごとしのごまかし記者会見があったと。
日本全国の教育委員会なるものの人達に告ぐ、あなた達は社会的立場としての人間が窺い知れない。単なる社会的動物が、雁首揃えて茶番をしているに過ぎない。それで良いのかお前達。
そしてメディアが、自殺練習というところにキーワードを意識し、報道となったと。これは昨年10月の事件である。メディアのミーハー的資質をまた思う。
両親が民事で訴え出たのは当然であるが、両親の弁護士さんに云いたいのは、この事案は明らかに殺人教唆という刑事事件には他ならいものではと考えます、金の話で済む事ではありません。
明らかにそれにより一人の命が失われた事実、警察機構、検察機構、並びに司法の持つセクト主義、習慣、慣習への執着、全ては前例に則った資質。
人間が構成する社会、文明は止まる事はありません、常に新しい価値観、常識が生まれ続けるものです。
それを全て過去の事例・判例に則って現実を判断するのは、悪を、罪を助長するのみです。
素人考えとか、そういうことで判断されず、前例とすべく前え進めないものでしょうか。
また殺人という罪に対する罰として、民事においては金銭は当然のことで、それは全体を考えるに、滋賀県、大津市、教育委員会、教育長はじめとする管及び個人について、大津署も当然、直接的イジメに関わった多数生徒(此のガキ共を現実と遊離した甘い法律⇒少年法の俎上に載せるべき)及び其の親達(今更ながらどう云う家庭であるか)ある意味一番罪が重い主犯とも云える教諭、および学校、前例など関係なく、組織と個人両方に対する責任を金銭と云う形で其の罪を償わせるべきです。
こうして、単純な怒りを超えて、日本人の持つ資質にも踏み込まざる得ない事案の検証を、一人の命を代償とした上での現実として、社会的示唆とし、この国の民全てが考え話し合うべきです。
あらかじめ去勢され怒ることを忘れた民よ、事と次第ってことがあるでしょう。
少年の死に対し明らかに社会⇒詰り国民一人一人に責任があると自覚するべきです。
こうやって書いたところで、少年の実存は二度と戻ってこない。
親御さんや縁者を念うに、・・言葉が無い。
その答えの無い問いをどうしたらいいんだ!
生きることとは人とは人生とは・・・何で死ななきゃいけないんだ・と少年は暗黒の自動律の中で、どう意識し認識していたのだろう・・心より冥福を祈ります、失礼な言い方だが・懲りずに又生まれて来てくれないかな・・・。