今の世の中、俺は色々、気に入らない、しかし言い出したら切りなくある。しかし何だか妙にと云うより、明らかに世の中が保守化、右傾化しているのを感じる。表立っていないだけに、嫌な世の中への予感がする。
森友学園問題なんかを見ていても思うんだが、そもそも、総理の嫁さんが名誉校長になっていたことが問題の発端だろう?
その経営母体の幼稚園で、教育勅語を暗唱する園児の姿に感涙を流されたって……アホかいなと。すでにここらで事の如何が明瞭だ。時代錯誤も甚だしい。其れ等がトップダウンで事が運ばれ右傾化しているのを念う。55年体制と時代は違うのだ。
この雑誌に載っているヌード写真にしたって、記事に使われる言葉だって、そう。差別や問題だとされるような表現や言葉が限りなく多く、表現が狭められてきている。
たとえば、“女の腐ったような”なんて言葉は使えないし、最近は“女々しい”なんて言葉も使いづらい。“女性に対する差別になるからだ”ってことは分かるが。でも、〝女の腐ったような〟っていう言葉から出てくる世界は単に女性蔑視だけではない日本語故のイメージがいっぱいあるはずで、そう云ったスレスレ言葉が失われることで、表現が画一化しいく。丸谷才一さんじゃないけど、こうやって表現や言葉が本質とはかけ離れたところで圧殺され無味なる世界が広がっている。
あとは日本人特有の、一億総ナントカ民族なる、従順なる情緒主義も、この国をじわじわと侵食して個の弱体化を図っている。
民放はもちろん、国営放送であるはずのNHKのニュース自体の選別に表現に扱い方も、情緒主義だ。事実を事実として報じればいいのに、妙にジメジメしている。でも、それは本当の優しさか?人の心、精神を結果的に萎えさせている。要するに、いろんなものの表現が〝お涙頂戴〟になっているということ。
とはいえ、「これは違うだろ」って思いながらも、俺も、そういう“お涙頂戴”のものを見て、涙している自分を自問自答しながらウンザリの日々である。
それでも、ことの如何は見極めているという自信はある。問題なのは、画一化された情報に、従順すぎる国民性だよな。単に時代の家来でいいのか。
だから、そんなつもりはなくても、知らない間に、右傾化、保守化、画一化されている己を知っているのかなんだよ。もはや、国民の右傾化は、結構なレベルにあると思う。
そういうところでは、文化やアート、オリジナルの表現っていうのは、非常に貧なるものになっていくわけだよ。これも、俺がよくよく言っていることだが、世の中は、みんな同じでは面白くない。平らな世の中ってのは危ないと断言する。デコボコしていたほうが、ダイナミックでいろんなものが出てくるって。
いろんな考え方、価値観が出てきて、それが交錯し、バトルして、その中から立ち上がっていくものが時代であり、人間のありようなんじゃないのかね。
それが、今の世の中のほとんどは、上っ面だけそろえてパッケージされている。それを突き破ろうとか、ぶった斬ろうとかするヤツが、表現者にもあまりにも少ない。周りをうかがいながら、時代をうかがいながら、今のトレンドをうかがいながら、それを越えないように、その範疇の中で、ちょっと目立てばいいという、そんなものばっかりだろう。
それは文化でもなんでもない。やっていることは、単なる時代の御用聞き。大切なのは“共感だ”なんて言うけど、そういうのを“傷の舐め合い”って言うんだよ。
そんなんで、これからの時代を乗り切れるのだろうかね?
ニュースでやっていたけど、京都のデパートで販売された、100体限定の人形だかなんだかを、転売屋のアジア系外国人が、ひとりですべて買い占めたっていう話さ。ひとり2体まで購入可能なのを、転売屋は並び屋を50人雇って、配布された整理券をすべて回収。買い占めったって。そこまでしても、転売すれば1体で3~8万円の利益が出るっていうんだから、連中はやるだろうさ。違法ではないんだから。小さく瑣末な奴らだ。
デパート側も、整理券だなんだという対策はしていたんだろう。でも、それは日本人だったらやらないだろう、という前提のもとの対策だよな。そういう甘さがある。もっとシリアスにやったら、あんまり人間的じゃないでしょっていう、日本人的な優しさがあるんだ。其れは単なるお人好し、決して優しさなんかではない。その偽物の優しさが、社会の通念になっているんだよ。
少子高齢化で労働力が足りなくなっている日本は、どうしたって外国人を受け入れないと成り立たなくなってくる。中国、韓国、南米からもどんどん入ってくるだろう。俺は、外国人労働者をどんどん受け入れるべきだって、ずっと言って来ている。で、実際にそうなると、さっきの人形の買い占めみたいなことで、いろんな問題も起きるだろうし、犯罪だって増えるだろう。今までになかった犯罪のパターンだって、いくらでも出てくる。
じゃあ、その時の対応力はあるのか? 実存としての人間社会、日本という社会がコントロールできるのか――全然ないよな。こんなに為政者たちがあたふたする社会が民と菅と政に経とただただ自己保身者の群れる国かいな・・と思えてならない。要するに、「正」だけが通る世の中は、変なんだよ。同時に「邪」も存在してこその「正」であって、「正」は「邪」といつもバトルしていなくちゃ健全じゃないんだよ。そうやって、時代はローリングしていくものなんだから。
だから「正」は、まずは疑ってみる。あらかじめ「正」の裏側を見るようにする。事は必ずや表裏一体、表の裏側に隠れているものを見抜く眼力を持つことだ。もちろん、良いものは良いし、正しいものは正しいと判断することも必要だが、その正邪の判断は、これだけ長く生きているからということもあるけど、俺は、かなり間違えることはまずない自信があるよ。
ま、かと言って間違えることも無いとはヤンヌルかな云えないけど、それは俺のかわいいところとして、勘弁してもらいたい(笑)。
いいか、「正」を疑え! 時代の御用聞きになるな!世の中を斜めにも見ろ!事と次第によっては真正面から世をぶった斬ってみろ!
週刊大衆増刊「ヴィーナス」6/1号掲載の連載より引用
森友学園問題なんかを見ていても思うんだが、そもそも、総理の嫁さんが名誉校長になっていたことが問題の発端だろう?
その経営母体の幼稚園で、教育勅語を暗唱する園児の姿に感涙を流されたって……アホかいなと。すでにここらで事の如何が明瞭だ。時代錯誤も甚だしい。其れ等がトップダウンで事が運ばれ右傾化しているのを念う。55年体制と時代は違うのだ。
この雑誌に載っているヌード写真にしたって、記事に使われる言葉だって、そう。差別や問題だとされるような表現や言葉が限りなく多く、表現が狭められてきている。
たとえば、“女の腐ったような”なんて言葉は使えないし、最近は“女々しい”なんて言葉も使いづらい。“女性に対する差別になるからだ”ってことは分かるが。でも、〝女の腐ったような〟っていう言葉から出てくる世界は単に女性蔑視だけではない日本語故のイメージがいっぱいあるはずで、そう云ったスレスレ言葉が失われることで、表現が画一化しいく。丸谷才一さんじゃないけど、こうやって表現や言葉が本質とはかけ離れたところで圧殺され無味なる世界が広がっている。
あとは日本人特有の、一億総ナントカ民族なる、従順なる情緒主義も、この国をじわじわと侵食して個の弱体化を図っている。
民放はもちろん、国営放送であるはずのNHKのニュース自体の選別に表現に扱い方も、情緒主義だ。事実を事実として報じればいいのに、妙にジメジメしている。でも、それは本当の優しさか?人の心、精神を結果的に萎えさせている。要するに、いろんなものの表現が〝お涙頂戴〟になっているということ。
とはいえ、「これは違うだろ」って思いながらも、俺も、そういう“お涙頂戴”のものを見て、涙している自分を自問自答しながらウンザリの日々である。
それでも、ことの如何は見極めているという自信はある。問題なのは、画一化された情報に、従順すぎる国民性だよな。単に時代の家来でいいのか。
だから、そんなつもりはなくても、知らない間に、右傾化、保守化、画一化されている己を知っているのかなんだよ。もはや、国民の右傾化は、結構なレベルにあると思う。
そういうところでは、文化やアート、オリジナルの表現っていうのは、非常に貧なるものになっていくわけだよ。これも、俺がよくよく言っていることだが、世の中は、みんな同じでは面白くない。平らな世の中ってのは危ないと断言する。デコボコしていたほうが、ダイナミックでいろんなものが出てくるって。
いろんな考え方、価値観が出てきて、それが交錯し、バトルして、その中から立ち上がっていくものが時代であり、人間のありようなんじゃないのかね。
それが、今の世の中のほとんどは、上っ面だけそろえてパッケージされている。それを突き破ろうとか、ぶった斬ろうとかするヤツが、表現者にもあまりにも少ない。周りをうかがいながら、時代をうかがいながら、今のトレンドをうかがいながら、それを越えないように、その範疇の中で、ちょっと目立てばいいという、そんなものばっかりだろう。
それは文化でもなんでもない。やっていることは、単なる時代の御用聞き。大切なのは“共感だ”なんて言うけど、そういうのを“傷の舐め合い”って言うんだよ。
そんなんで、これからの時代を乗り切れるのだろうかね?
ニュースでやっていたけど、京都のデパートで販売された、100体限定の人形だかなんだかを、転売屋のアジア系外国人が、ひとりですべて買い占めたっていう話さ。ひとり2体まで購入可能なのを、転売屋は並び屋を50人雇って、配布された整理券をすべて回収。買い占めったって。そこまでしても、転売すれば1体で3~8万円の利益が出るっていうんだから、連中はやるだろうさ。違法ではないんだから。小さく瑣末な奴らだ。
デパート側も、整理券だなんだという対策はしていたんだろう。でも、それは日本人だったらやらないだろう、という前提のもとの対策だよな。そういう甘さがある。もっとシリアスにやったら、あんまり人間的じゃないでしょっていう、日本人的な優しさがあるんだ。其れは単なるお人好し、決して優しさなんかではない。その偽物の優しさが、社会の通念になっているんだよ。
少子高齢化で労働力が足りなくなっている日本は、どうしたって外国人を受け入れないと成り立たなくなってくる。中国、韓国、南米からもどんどん入ってくるだろう。俺は、外国人労働者をどんどん受け入れるべきだって、ずっと言って来ている。で、実際にそうなると、さっきの人形の買い占めみたいなことで、いろんな問題も起きるだろうし、犯罪だって増えるだろう。今までになかった犯罪のパターンだって、いくらでも出てくる。
じゃあ、その時の対応力はあるのか? 実存としての人間社会、日本という社会がコントロールできるのか――全然ないよな。こんなに為政者たちがあたふたする社会が民と菅と政に経とただただ自己保身者の群れる国かいな・・と思えてならない。要するに、「正」だけが通る世の中は、変なんだよ。同時に「邪」も存在してこその「正」であって、「正」は「邪」といつもバトルしていなくちゃ健全じゃないんだよ。そうやって、時代はローリングしていくものなんだから。
だから「正」は、まずは疑ってみる。あらかじめ「正」の裏側を見るようにする。事は必ずや表裏一体、表の裏側に隠れているものを見抜く眼力を持つことだ。もちろん、良いものは良いし、正しいものは正しいと判断することも必要だが、その正邪の判断は、これだけ長く生きているからということもあるけど、俺は、かなり間違えることはまずない自信があるよ。
ま、かと言って間違えることも無いとはヤンヌルかな云えないけど、それは俺のかわいいところとして、勘弁してもらいたい(笑)。
いいか、「正」を疑え! 時代の御用聞きになるな!世の中を斜めにも見ろ!事と次第によっては真正面から世をぶった斬ってみろ!
週刊大衆増刊「ヴィーナス」6/1号掲載の連載より引用
安倍政権が進めて来た「働き方改革」ってのも、本当におかしな話だな。当たり前だが、働き方なんか他人に決められるもんじゃないだろう。
なんでも、電通のお姉さんが過労自殺に追い込まれたことが、この〝改革〟のきっかけの一つになった。長時間労働の解消や、非正規と正社員の格差是正を、ってことだが、御上が働き方を決めるって、まるっきり共産主義、社会主義システムだ。現世代には、次世代につなぐ責任があるんだが、働き方が平均化された社会から、オリジナルなんて何も生まれないよ。会社勤めをしているなら、会社のテーゼ、フォームというものがあるだろう。サラリーマンであれば、そこは外せない部分かもしれないが、そんなものは上っ面だけ、つき合っているフリをして、本質は自分のやり方で好きなようにやればいいと思うしやる奴はやってる筈だ。
たとえば、キヤノンに勤めている人が、ニコンのカメラがいいなと思ったら、キヤノンの中でニコンのカメラを作ろうとすればいい。競合、つまり競争がなくては社会は単なるロボット達の檻でしかない。此れだけデジタル、IT、AI 化が現下となって、この進化?が生物としての種、人間の退化を招くは必然で、人間とは、社会とはを考えざるを得ない。それが結果、会社のためになるだろうが。もっと言うと、会社のためになったって、ならなくたってどっちだっていい。経費ばかり使って、今日も会社にいないじゃないかっていう社員でもいい。1年に1本しかアイディアを出さなくたって、それもいい。それは自由っていうくらいの、余裕があったほうがいい。それくらいフレキシブルに個人個人の脳の奥地への喚起を促す環境を社会を何よりも、予め社会学として無いのか、時に現れる哲人待ちではもはや立ち行かない。古典的な言い方をすれば、個と客体、の問題では無いのか。それでこそお題目の〝一億総活躍社会〟が実現されると思うんだが、今の「働き方改革」は、アプローチが真逆だよな。オリジナルなんて生まれようがない。
雑誌で連載をしておいて、こんなことを言うのもなんだが、最近の雑誌を見ていても、オリジナルにチャレンジしていない。だいたい、編集者、編集長に、活きた人材、骨のある奴がほとんどいない。全部、上を見て、人の顔色を見て、部数、カネを見て、データを見て仕事をしている。オリジナルが出てこないわけだよ。
かつての『平凡パンチ』なんて、今の編集部の有りようとは全然違ったよ。石川次郎が編集者の頃だよな。間違いなく、時代を作っていくオリジナルがあった。一緒に酒を飲んでいて、「こういう写真撮ろうよ」「それ、写真にしたらいいよな」って話が盛り上がる。すると、「じゃあ今からやるか!」って動きだして、どこからかお姉ちゃんを探してきて、ホテルを取って撮影をはじめる。予定調和なんてなかったし、それが実際にページになって、雑誌の色を作っていった。決まった時間に出社して定時で帰るような仕事からは絶対に生まれない熱があったよ。
ニューヨークのハドソン川をスーツ姿の内田裕也に泳がせた、1985年のパルコのCMもそう。糸井重里をはじめ、11人の当時のトップクリエイターが集まってアイディアを出し合い、最終的には俺の提案したアイディアに決まった。当時、あの川はかなりな汚れ方をしていて、予防注射を6本だったか打ってもらったけど、撮影後に高熱を出した。ムチャクチャだった。
事前にハワイのワイキキで、スーツで泳げるかを裕也さんがテストをしたときも、海に飛び込む内田に、アメリカ人がキャッキャ言って喜んでいるのを日本の観光客は、また彼奴が、って顔して見ていた。
ひらめきに蓋をして、決められた通りの働き方をしていたら、あんな仕事はできなかっただろうよ。
テレビで言うと、かつてのフジテレビには、軽いノリではあったが、オリジナルがあったと思うよ。
ところが今は、不倫ネタが受けて視聴率が取れるとなれば、それ一色。1億総ゲス社会だ!ゲス週刊誌、文春の記者が不倫する芸能人を追っかけゲスなるインタビューしているのをゲスTV情報番組がやっていたが、見ていて思ったのはこの記者、スクープとでもと思ってやっているのかな?と。その人間の精神を思わざるを得なかった。文春にしても出版社としての嘗てあった社会的責任またはプライドは何処へ行ってしまったのだ。此れだけ紙媒体が衰退し、会社を、社員を、その家族を守るには、レベルとか言ってられない!ではあろうが、些か昔を知っている者からすると、今更ながらどうしてこうも社会全体と構成する、人の貧困さ、を念う。繰り返すが、実存する故の自己の精神としての問題をだ。
テレビも又メディアの強力さからすれば、いくらでもやりようはあるだろう。フジの社長を、1回、俺にやらせてみろって。文学でも、自分の精神の問題としての信じるものにチャレンジしている作家が今、どれだけいるんだ。皆、ただのエンターテイメントに過ぎない。
連中も食わなきゃいけないんだろうが、直木賞なりを取って売れていくと、追求すべき文学から逃げて、手堅く安定数をとれる時代劇を書き出すよな。そんなのは、大道香具師と一緒。お祭りで昆布売っているオバサンと変わらないよ。いや、昆布売りのオバサンのほうが、変に格好をつける文学者たちよりも、シンプルでいいかもしれない。
とにかく、「働き方改革」と言うなら、従うべきものは何か、まずはよく考えてみたほうがいい。上司とか会社とか、社会とか法律とかを、1回ハズして考えてみなって。そのときに必要なのは、他の人は写らない自分だけの精神の鏡を持つことだ。そして、よく見てみな、一度しか生れて来ない己の奥地を!一回しかないチャンスをだ!
「自分って、なんだ?」「俺って誰だ?」そこから、日々へのアプローチが、働き方が決まってくるだろう。
週刊大衆増刊「ヴィーナス」5/4号掲載の連載より引用
なんでも、電通のお姉さんが過労自殺に追い込まれたことが、この〝改革〟のきっかけの一つになった。長時間労働の解消や、非正規と正社員の格差是正を、ってことだが、御上が働き方を決めるって、まるっきり共産主義、社会主義システムだ。現世代には、次世代につなぐ責任があるんだが、働き方が平均化された社会から、オリジナルなんて何も生まれないよ。会社勤めをしているなら、会社のテーゼ、フォームというものがあるだろう。サラリーマンであれば、そこは外せない部分かもしれないが、そんなものは上っ面だけ、つき合っているフリをして、本質は自分のやり方で好きなようにやればいいと思うしやる奴はやってる筈だ。
たとえば、キヤノンに勤めている人が、ニコンのカメラがいいなと思ったら、キヤノンの中でニコンのカメラを作ろうとすればいい。競合、つまり競争がなくては社会は単なるロボット達の檻でしかない。此れだけデジタル、IT、AI 化が現下となって、この進化?が生物としての種、人間の退化を招くは必然で、人間とは、社会とはを考えざるを得ない。それが結果、会社のためになるだろうが。もっと言うと、会社のためになったって、ならなくたってどっちだっていい。経費ばかり使って、今日も会社にいないじゃないかっていう社員でもいい。1年に1本しかアイディアを出さなくたって、それもいい。それは自由っていうくらいの、余裕があったほうがいい。それくらいフレキシブルに個人個人の脳の奥地への喚起を促す環境を社会を何よりも、予め社会学として無いのか、時に現れる哲人待ちではもはや立ち行かない。古典的な言い方をすれば、個と客体、の問題では無いのか。それでこそお題目の〝一億総活躍社会〟が実現されると思うんだが、今の「働き方改革」は、アプローチが真逆だよな。オリジナルなんて生まれようがない。
雑誌で連載をしておいて、こんなことを言うのもなんだが、最近の雑誌を見ていても、オリジナルにチャレンジしていない。だいたい、編集者、編集長に、活きた人材、骨のある奴がほとんどいない。全部、上を見て、人の顔色を見て、部数、カネを見て、データを見て仕事をしている。オリジナルが出てこないわけだよ。
かつての『平凡パンチ』なんて、今の編集部の有りようとは全然違ったよ。石川次郎が編集者の頃だよな。間違いなく、時代を作っていくオリジナルがあった。一緒に酒を飲んでいて、「こういう写真撮ろうよ」「それ、写真にしたらいいよな」って話が盛り上がる。すると、「じゃあ今からやるか!」って動きだして、どこからかお姉ちゃんを探してきて、ホテルを取って撮影をはじめる。予定調和なんてなかったし、それが実際にページになって、雑誌の色を作っていった。決まった時間に出社して定時で帰るような仕事からは絶対に生まれない熱があったよ。
ニューヨークのハドソン川をスーツ姿の内田裕也に泳がせた、1985年のパルコのCMもそう。糸井重里をはじめ、11人の当時のトップクリエイターが集まってアイディアを出し合い、最終的には俺の提案したアイディアに決まった。当時、あの川はかなりな汚れ方をしていて、予防注射を6本だったか打ってもらったけど、撮影後に高熱を出した。ムチャクチャだった。
事前にハワイのワイキキで、スーツで泳げるかを裕也さんがテストをしたときも、海に飛び込む内田に、アメリカ人がキャッキャ言って喜んでいるのを日本の観光客は、また彼奴が、って顔して見ていた。
ひらめきに蓋をして、決められた通りの働き方をしていたら、あんな仕事はできなかっただろうよ。
テレビで言うと、かつてのフジテレビには、軽いノリではあったが、オリジナルがあったと思うよ。
ところが今は、不倫ネタが受けて視聴率が取れるとなれば、それ一色。1億総ゲス社会だ!ゲス週刊誌、文春の記者が不倫する芸能人を追っかけゲスなるインタビューしているのをゲスTV情報番組がやっていたが、見ていて思ったのはこの記者、スクープとでもと思ってやっているのかな?と。その人間の精神を思わざるを得なかった。文春にしても出版社としての嘗てあった社会的責任またはプライドは何処へ行ってしまったのだ。此れだけ紙媒体が衰退し、会社を、社員を、その家族を守るには、レベルとか言ってられない!ではあろうが、些か昔を知っている者からすると、今更ながらどうしてこうも社会全体と構成する、人の貧困さ、を念う。繰り返すが、実存する故の自己の精神としての問題をだ。
テレビも又メディアの強力さからすれば、いくらでもやりようはあるだろう。フジの社長を、1回、俺にやらせてみろって。文学でも、自分の精神の問題としての信じるものにチャレンジしている作家が今、どれだけいるんだ。皆、ただのエンターテイメントに過ぎない。
連中も食わなきゃいけないんだろうが、直木賞なりを取って売れていくと、追求すべき文学から逃げて、手堅く安定数をとれる時代劇を書き出すよな。そんなのは、大道香具師と一緒。お祭りで昆布売っているオバサンと変わらないよ。いや、昆布売りのオバサンのほうが、変に格好をつける文学者たちよりも、シンプルでいいかもしれない。
とにかく、「働き方改革」と言うなら、従うべきものは何か、まずはよく考えてみたほうがいい。上司とか会社とか、社会とか法律とかを、1回ハズして考えてみなって。そのときに必要なのは、他の人は写らない自分だけの精神の鏡を持つことだ。そして、よく見てみな、一度しか生れて来ない己の奥地を!一回しかないチャンスをだ!
「自分って、なんだ?」「俺って誰だ?」そこから、日々へのアプローチが、働き方が決まってくるだろう。
週刊大衆増刊「ヴィーナス」5/4号掲載の連載より引用