今の世の中、俺は色々、気に入らない、しかし言い出したら切りなくある。しかし何だか妙にと云うより、明らかに世の中が保守化、右傾化しているのを感じる。表立っていないだけに、嫌な世の中への予感がする。
森友学園問題なんかを見ていても思うんだが、そもそも、総理の嫁さんが名誉校長になっていたことが問題の発端だろう?
その経営母体の幼稚園で、教育勅語を暗唱する園児の姿に感涙を流されたって……アホかいなと。すでにここらで事の如何が明瞭だ。時代錯誤も甚だしい。其れ等がトップダウンで事が運ばれ右傾化しているのを念う。55年体制と時代は違うのだ。
この雑誌に載っているヌード写真にしたって、記事に使われる言葉だって、そう。差別や問題だとされるような表現や言葉が限りなく多く、表現が狭められてきている。
たとえば、“女の腐ったような”なんて言葉は使えないし、最近は“女々しい”なんて言葉も使いづらい。“女性に対する差別になるからだ”ってことは分かるが。でも、〝女の腐ったような〟っていう言葉から出てくる世界は単に女性蔑視だけではない日本語故のイメージがいっぱいあるはずで、そう云ったスレスレ言葉が失われることで、表現が画一化しいく。丸谷才一さんじゃないけど、こうやって表現や言葉が本質とはかけ離れたところで圧殺され無味なる世界が広がっている。
あとは日本人特有の、一億総ナントカ民族なる、従順なる情緒主義も、この国をじわじわと侵食して個の弱体化を図っている。
民放はもちろん、国営放送であるはずのNHKのニュース自体の選別に表現に扱い方も、情緒主義だ。事実を事実として報じればいいのに、妙にジメジメしている。でも、それは本当の優しさか?人の心、精神を結果的に萎えさせている。要するに、いろんなものの表現が〝お涙頂戴〟になっているということ。
とはいえ、「これは違うだろ」って思いながらも、俺も、そういう“お涙頂戴”のものを見て、涙している自分を自問自答しながらウンザリの日々である。
それでも、ことの如何は見極めているという自信はある。問題なのは、画一化された情報に、従順すぎる国民性だよな。単に時代の家来でいいのか。
だから、そんなつもりはなくても、知らない間に、右傾化、保守化、画一化されている己を知っているのかなんだよ。もはや、国民の右傾化は、結構なレベルにあると思う。
そういうところでは、文化やアート、オリジナルの表現っていうのは、非常に貧なるものになっていくわけだよ。これも、俺がよくよく言っていることだが、世の中は、みんな同じでは面白くない。平らな世の中ってのは危ないと断言する。デコボコしていたほうが、ダイナミックでいろんなものが出てくるって。
いろんな考え方、価値観が出てきて、それが交錯し、バトルして、その中から立ち上がっていくものが時代であり、人間のありようなんじゃないのかね。
それが、今の世の中のほとんどは、上っ面だけそろえてパッケージされている。それを突き破ろうとか、ぶった斬ろうとかするヤツが、表現者にもあまりにも少ない。周りをうかがいながら、時代をうかがいながら、今のトレンドをうかがいながら、それを越えないように、その範疇の中で、ちょっと目立てばいいという、そんなものばっかりだろう。
それは文化でもなんでもない。やっていることは、単なる時代の御用聞き。大切なのは“共感だ”なんて言うけど、そういうのを“傷の舐め合い”って言うんだよ。
そんなんで、これからの時代を乗り切れるのだろうかね?
ニュースでやっていたけど、京都のデパートで販売された、100体限定の人形だかなんだかを、転売屋のアジア系外国人が、ひとりですべて買い占めたっていう話さ。ひとり2体まで購入可能なのを、転売屋は並び屋を50人雇って、配布された整理券をすべて回収。買い占めったって。そこまでしても、転売すれば1体で3~8万円の利益が出るっていうんだから、連中はやるだろうさ。違法ではないんだから。小さく瑣末な奴らだ。
デパート側も、整理券だなんだという対策はしていたんだろう。でも、それは日本人だったらやらないだろう、という前提のもとの対策だよな。そういう甘さがある。もっとシリアスにやったら、あんまり人間的じゃないでしょっていう、日本人的な優しさがあるんだ。其れは単なるお人好し、決して優しさなんかではない。その偽物の優しさが、社会の通念になっているんだよ。
少子高齢化で労働力が足りなくなっている日本は、どうしたって外国人を受け入れないと成り立たなくなってくる。中国、韓国、南米からもどんどん入ってくるだろう。俺は、外国人労働者をどんどん受け入れるべきだって、ずっと言って来ている。で、実際にそうなると、さっきの人形の買い占めみたいなことで、いろんな問題も起きるだろうし、犯罪だって増えるだろう。今までになかった犯罪のパターンだって、いくらでも出てくる。
じゃあ、その時の対応力はあるのか? 実存としての人間社会、日本という社会がコントロールできるのか――全然ないよな。こんなに為政者たちがあたふたする社会が民と菅と政に経とただただ自己保身者の群れる国かいな・・と思えてならない。要するに、「正」だけが通る世の中は、変なんだよ。同時に「邪」も存在してこその「正」であって、「正」は「邪」といつもバトルしていなくちゃ健全じゃないんだよ。そうやって、時代はローリングしていくものなんだから。
だから「正」は、まずは疑ってみる。あらかじめ「正」の裏側を見るようにする。事は必ずや表裏一体、表の裏側に隠れているものを見抜く眼力を持つことだ。もちろん、良いものは良いし、正しいものは正しいと判断することも必要だが、その正邪の判断は、これだけ長く生きているからということもあるけど、俺は、かなり間違えることはまずない自信があるよ。
ま、かと言って間違えることも無いとはヤンヌルかな云えないけど、それは俺のかわいいところとして、勘弁してもらいたい(笑)。
いいか、「正」を疑え! 時代の御用聞きになるな!世の中を斜めにも見ろ!事と次第によっては真正面から世をぶった斬ってみろ!
週刊大衆増刊「ヴィーナス」6/1号掲載の連載より引用
森友学園問題なんかを見ていても思うんだが、そもそも、総理の嫁さんが名誉校長になっていたことが問題の発端だろう?
その経営母体の幼稚園で、教育勅語を暗唱する園児の姿に感涙を流されたって……アホかいなと。すでにここらで事の如何が明瞭だ。時代錯誤も甚だしい。其れ等がトップダウンで事が運ばれ右傾化しているのを念う。55年体制と時代は違うのだ。
この雑誌に載っているヌード写真にしたって、記事に使われる言葉だって、そう。差別や問題だとされるような表現や言葉が限りなく多く、表現が狭められてきている。
たとえば、“女の腐ったような”なんて言葉は使えないし、最近は“女々しい”なんて言葉も使いづらい。“女性に対する差別になるからだ”ってことは分かるが。でも、〝女の腐ったような〟っていう言葉から出てくる世界は単に女性蔑視だけではない日本語故のイメージがいっぱいあるはずで、そう云ったスレスレ言葉が失われることで、表現が画一化しいく。丸谷才一さんじゃないけど、こうやって表現や言葉が本質とはかけ離れたところで圧殺され無味なる世界が広がっている。
あとは日本人特有の、一億総ナントカ民族なる、従順なる情緒主義も、この国をじわじわと侵食して個の弱体化を図っている。
民放はもちろん、国営放送であるはずのNHKのニュース自体の選別に表現に扱い方も、情緒主義だ。事実を事実として報じればいいのに、妙にジメジメしている。でも、それは本当の優しさか?人の心、精神を結果的に萎えさせている。要するに、いろんなものの表現が〝お涙頂戴〟になっているということ。
とはいえ、「これは違うだろ」って思いながらも、俺も、そういう“お涙頂戴”のものを見て、涙している自分を自問自答しながらウンザリの日々である。
それでも、ことの如何は見極めているという自信はある。問題なのは、画一化された情報に、従順すぎる国民性だよな。単に時代の家来でいいのか。
だから、そんなつもりはなくても、知らない間に、右傾化、保守化、画一化されている己を知っているのかなんだよ。もはや、国民の右傾化は、結構なレベルにあると思う。
そういうところでは、文化やアート、オリジナルの表現っていうのは、非常に貧なるものになっていくわけだよ。これも、俺がよくよく言っていることだが、世の中は、みんな同じでは面白くない。平らな世の中ってのは危ないと断言する。デコボコしていたほうが、ダイナミックでいろんなものが出てくるって。
いろんな考え方、価値観が出てきて、それが交錯し、バトルして、その中から立ち上がっていくものが時代であり、人間のありようなんじゃないのかね。
それが、今の世の中のほとんどは、上っ面だけそろえてパッケージされている。それを突き破ろうとか、ぶった斬ろうとかするヤツが、表現者にもあまりにも少ない。周りをうかがいながら、時代をうかがいながら、今のトレンドをうかがいながら、それを越えないように、その範疇の中で、ちょっと目立てばいいという、そんなものばっかりだろう。
それは文化でもなんでもない。やっていることは、単なる時代の御用聞き。大切なのは“共感だ”なんて言うけど、そういうのを“傷の舐め合い”って言うんだよ。
そんなんで、これからの時代を乗り切れるのだろうかね?
ニュースでやっていたけど、京都のデパートで販売された、100体限定の人形だかなんだかを、転売屋のアジア系外国人が、ひとりですべて買い占めたっていう話さ。ひとり2体まで購入可能なのを、転売屋は並び屋を50人雇って、配布された整理券をすべて回収。買い占めったって。そこまでしても、転売すれば1体で3~8万円の利益が出るっていうんだから、連中はやるだろうさ。違法ではないんだから。小さく瑣末な奴らだ。
デパート側も、整理券だなんだという対策はしていたんだろう。でも、それは日本人だったらやらないだろう、という前提のもとの対策だよな。そういう甘さがある。もっとシリアスにやったら、あんまり人間的じゃないでしょっていう、日本人的な優しさがあるんだ。其れは単なるお人好し、決して優しさなんかではない。その偽物の優しさが、社会の通念になっているんだよ。
少子高齢化で労働力が足りなくなっている日本は、どうしたって外国人を受け入れないと成り立たなくなってくる。中国、韓国、南米からもどんどん入ってくるだろう。俺は、外国人労働者をどんどん受け入れるべきだって、ずっと言って来ている。で、実際にそうなると、さっきの人形の買い占めみたいなことで、いろんな問題も起きるだろうし、犯罪だって増えるだろう。今までになかった犯罪のパターンだって、いくらでも出てくる。
じゃあ、その時の対応力はあるのか? 実存としての人間社会、日本という社会がコントロールできるのか――全然ないよな。こんなに為政者たちがあたふたする社会が民と菅と政に経とただただ自己保身者の群れる国かいな・・と思えてならない。要するに、「正」だけが通る世の中は、変なんだよ。同時に「邪」も存在してこその「正」であって、「正」は「邪」といつもバトルしていなくちゃ健全じゃないんだよ。そうやって、時代はローリングしていくものなんだから。
だから「正」は、まずは疑ってみる。あらかじめ「正」の裏側を見るようにする。事は必ずや表裏一体、表の裏側に隠れているものを見抜く眼力を持つことだ。もちろん、良いものは良いし、正しいものは正しいと判断することも必要だが、その正邪の判断は、これだけ長く生きているからということもあるけど、俺は、かなり間違えることはまずない自信があるよ。
ま、かと言って間違えることも無いとはヤンヌルかな云えないけど、それは俺のかわいいところとして、勘弁してもらいたい(笑)。
いいか、「正」を疑え! 時代の御用聞きになるな!世の中を斜めにも見ろ!事と次第によっては真正面から世をぶった斬ってみろ!
週刊大衆増刊「ヴィーナス」6/1号掲載の連載より引用
安倍政権が進めて来た「働き方改革」ってのも、本当におかしな話だな。当たり前だが、働き方なんか他人に決められるもんじゃないだろう。
なんでも、電通のお姉さんが過労自殺に追い込まれたことが、この〝改革〟のきっかけの一つになった。長時間労働の解消や、非正規と正社員の格差是正を、ってことだが、御上が働き方を決めるって、まるっきり共産主義、社会主義システムだ。現世代には、次世代につなぐ責任があるんだが、働き方が平均化された社会から、オリジナルなんて何も生まれないよ。会社勤めをしているなら、会社のテーゼ、フォームというものがあるだろう。サラリーマンであれば、そこは外せない部分かもしれないが、そんなものは上っ面だけ、つき合っているフリをして、本質は自分のやり方で好きなようにやればいいと思うしやる奴はやってる筈だ。
たとえば、キヤノンに勤めている人が、ニコンのカメラがいいなと思ったら、キヤノンの中でニコンのカメラを作ろうとすればいい。競合、つまり競争がなくては社会は単なるロボット達の檻でしかない。此れだけデジタル、IT、AI 化が現下となって、この進化?が生物としての種、人間の退化を招くは必然で、人間とは、社会とはを考えざるを得ない。それが結果、会社のためになるだろうが。もっと言うと、会社のためになったって、ならなくたってどっちだっていい。経費ばかり使って、今日も会社にいないじゃないかっていう社員でもいい。1年に1本しかアイディアを出さなくたって、それもいい。それは自由っていうくらいの、余裕があったほうがいい。それくらいフレキシブルに個人個人の脳の奥地への喚起を促す環境を社会を何よりも、予め社会学として無いのか、時に現れる哲人待ちではもはや立ち行かない。古典的な言い方をすれば、個と客体、の問題では無いのか。それでこそお題目の〝一億総活躍社会〟が実現されると思うんだが、今の「働き方改革」は、アプローチが真逆だよな。オリジナルなんて生まれようがない。
雑誌で連載をしておいて、こんなことを言うのもなんだが、最近の雑誌を見ていても、オリジナルにチャレンジしていない。だいたい、編集者、編集長に、活きた人材、骨のある奴がほとんどいない。全部、上を見て、人の顔色を見て、部数、カネを見て、データを見て仕事をしている。オリジナルが出てこないわけだよ。
かつての『平凡パンチ』なんて、今の編集部の有りようとは全然違ったよ。石川次郎が編集者の頃だよな。間違いなく、時代を作っていくオリジナルがあった。一緒に酒を飲んでいて、「こういう写真撮ろうよ」「それ、写真にしたらいいよな」って話が盛り上がる。すると、「じゃあ今からやるか!」って動きだして、どこからかお姉ちゃんを探してきて、ホテルを取って撮影をはじめる。予定調和なんてなかったし、それが実際にページになって、雑誌の色を作っていった。決まった時間に出社して定時で帰るような仕事からは絶対に生まれない熱があったよ。
ニューヨークのハドソン川をスーツ姿の内田裕也に泳がせた、1985年のパルコのCMもそう。糸井重里をはじめ、11人の当時のトップクリエイターが集まってアイディアを出し合い、最終的には俺の提案したアイディアに決まった。当時、あの川はかなりな汚れ方をしていて、予防注射を6本だったか打ってもらったけど、撮影後に高熱を出した。ムチャクチャだった。
事前にハワイのワイキキで、スーツで泳げるかを裕也さんがテストをしたときも、海に飛び込む内田に、アメリカ人がキャッキャ言って喜んでいるのを日本の観光客は、また彼奴が、って顔して見ていた。
ひらめきに蓋をして、決められた通りの働き方をしていたら、あんな仕事はできなかっただろうよ。
テレビで言うと、かつてのフジテレビには、軽いノリではあったが、オリジナルがあったと思うよ。
ところが今は、不倫ネタが受けて視聴率が取れるとなれば、それ一色。1億総ゲス社会だ!ゲス週刊誌、文春の記者が不倫する芸能人を追っかけゲスなるインタビューしているのをゲスTV情報番組がやっていたが、見ていて思ったのはこの記者、スクープとでもと思ってやっているのかな?と。その人間の精神を思わざるを得なかった。文春にしても出版社としての嘗てあった社会的責任またはプライドは何処へ行ってしまったのだ。此れだけ紙媒体が衰退し、会社を、社員を、その家族を守るには、レベルとか言ってられない!ではあろうが、些か昔を知っている者からすると、今更ながらどうしてこうも社会全体と構成する、人の貧困さ、を念う。繰り返すが、実存する故の自己の精神としての問題をだ。
テレビも又メディアの強力さからすれば、いくらでもやりようはあるだろう。フジの社長を、1回、俺にやらせてみろって。文学でも、自分の精神の問題としての信じるものにチャレンジしている作家が今、どれだけいるんだ。皆、ただのエンターテイメントに過ぎない。
連中も食わなきゃいけないんだろうが、直木賞なりを取って売れていくと、追求すべき文学から逃げて、手堅く安定数をとれる時代劇を書き出すよな。そんなのは、大道香具師と一緒。お祭りで昆布売っているオバサンと変わらないよ。いや、昆布売りのオバサンのほうが、変に格好をつける文学者たちよりも、シンプルでいいかもしれない。
とにかく、「働き方改革」と言うなら、従うべきものは何か、まずはよく考えてみたほうがいい。上司とか会社とか、社会とか法律とかを、1回ハズして考えてみなって。そのときに必要なのは、他の人は写らない自分だけの精神の鏡を持つことだ。そして、よく見てみな、一度しか生れて来ない己の奥地を!一回しかないチャンスをだ!
「自分って、なんだ?」「俺って誰だ?」そこから、日々へのアプローチが、働き方が決まってくるだろう。
週刊大衆増刊「ヴィーナス」5/4号掲載の連載より引用
なんでも、電通のお姉さんが過労自殺に追い込まれたことが、この〝改革〟のきっかけの一つになった。長時間労働の解消や、非正規と正社員の格差是正を、ってことだが、御上が働き方を決めるって、まるっきり共産主義、社会主義システムだ。現世代には、次世代につなぐ責任があるんだが、働き方が平均化された社会から、オリジナルなんて何も生まれないよ。会社勤めをしているなら、会社のテーゼ、フォームというものがあるだろう。サラリーマンであれば、そこは外せない部分かもしれないが、そんなものは上っ面だけ、つき合っているフリをして、本質は自分のやり方で好きなようにやればいいと思うしやる奴はやってる筈だ。
たとえば、キヤノンに勤めている人が、ニコンのカメラがいいなと思ったら、キヤノンの中でニコンのカメラを作ろうとすればいい。競合、つまり競争がなくては社会は単なるロボット達の檻でしかない。此れだけデジタル、IT、AI 化が現下となって、この進化?が生物としての種、人間の退化を招くは必然で、人間とは、社会とはを考えざるを得ない。それが結果、会社のためになるだろうが。もっと言うと、会社のためになったって、ならなくたってどっちだっていい。経費ばかり使って、今日も会社にいないじゃないかっていう社員でもいい。1年に1本しかアイディアを出さなくたって、それもいい。それは自由っていうくらいの、余裕があったほうがいい。それくらいフレキシブルに個人個人の脳の奥地への喚起を促す環境を社会を何よりも、予め社会学として無いのか、時に現れる哲人待ちではもはや立ち行かない。古典的な言い方をすれば、個と客体、の問題では無いのか。それでこそお題目の〝一億総活躍社会〟が実現されると思うんだが、今の「働き方改革」は、アプローチが真逆だよな。オリジナルなんて生まれようがない。
雑誌で連載をしておいて、こんなことを言うのもなんだが、最近の雑誌を見ていても、オリジナルにチャレンジしていない。だいたい、編集者、編集長に、活きた人材、骨のある奴がほとんどいない。全部、上を見て、人の顔色を見て、部数、カネを見て、データを見て仕事をしている。オリジナルが出てこないわけだよ。
かつての『平凡パンチ』なんて、今の編集部の有りようとは全然違ったよ。石川次郎が編集者の頃だよな。間違いなく、時代を作っていくオリジナルがあった。一緒に酒を飲んでいて、「こういう写真撮ろうよ」「それ、写真にしたらいいよな」って話が盛り上がる。すると、「じゃあ今からやるか!」って動きだして、どこからかお姉ちゃんを探してきて、ホテルを取って撮影をはじめる。予定調和なんてなかったし、それが実際にページになって、雑誌の色を作っていった。決まった時間に出社して定時で帰るような仕事からは絶対に生まれない熱があったよ。
ニューヨークのハドソン川をスーツ姿の内田裕也に泳がせた、1985年のパルコのCMもそう。糸井重里をはじめ、11人の当時のトップクリエイターが集まってアイディアを出し合い、最終的には俺の提案したアイディアに決まった。当時、あの川はかなりな汚れ方をしていて、予防注射を6本だったか打ってもらったけど、撮影後に高熱を出した。ムチャクチャだった。
事前にハワイのワイキキで、スーツで泳げるかを裕也さんがテストをしたときも、海に飛び込む内田に、アメリカ人がキャッキャ言って喜んでいるのを日本の観光客は、また彼奴が、って顔して見ていた。
ひらめきに蓋をして、決められた通りの働き方をしていたら、あんな仕事はできなかっただろうよ。
テレビで言うと、かつてのフジテレビには、軽いノリではあったが、オリジナルがあったと思うよ。
ところが今は、不倫ネタが受けて視聴率が取れるとなれば、それ一色。1億総ゲス社会だ!ゲス週刊誌、文春の記者が不倫する芸能人を追っかけゲスなるインタビューしているのをゲスTV情報番組がやっていたが、見ていて思ったのはこの記者、スクープとでもと思ってやっているのかな?と。その人間の精神を思わざるを得なかった。文春にしても出版社としての嘗てあった社会的責任またはプライドは何処へ行ってしまったのだ。此れだけ紙媒体が衰退し、会社を、社員を、その家族を守るには、レベルとか言ってられない!ではあろうが、些か昔を知っている者からすると、今更ながらどうしてこうも社会全体と構成する、人の貧困さ、を念う。繰り返すが、実存する故の自己の精神としての問題をだ。
テレビも又メディアの強力さからすれば、いくらでもやりようはあるだろう。フジの社長を、1回、俺にやらせてみろって。文学でも、自分の精神の問題としての信じるものにチャレンジしている作家が今、どれだけいるんだ。皆、ただのエンターテイメントに過ぎない。
連中も食わなきゃいけないんだろうが、直木賞なりを取って売れていくと、追求すべき文学から逃げて、手堅く安定数をとれる時代劇を書き出すよな。そんなのは、大道香具師と一緒。お祭りで昆布売っているオバサンと変わらないよ。いや、昆布売りのオバサンのほうが、変に格好をつける文学者たちよりも、シンプルでいいかもしれない。
とにかく、「働き方改革」と言うなら、従うべきものは何か、まずはよく考えてみたほうがいい。上司とか会社とか、社会とか法律とかを、1回ハズして考えてみなって。そのときに必要なのは、他の人は写らない自分だけの精神の鏡を持つことだ。そして、よく見てみな、一度しか生れて来ない己の奥地を!一回しかないチャンスをだ!
「自分って、なんだ?」「俺って誰だ?」そこから、日々へのアプローチが、働き方が決まってくるだろう。
週刊大衆増刊「ヴィーナス」5/4号掲載の連載より引用
韓国・平昌冬季オリンピックがようやく終わった。 確かに羽生選手をはじめ、選手たちはよく頑張っていた。 だが、相変わらずと云うか、メディアの大騒ぎにはウンザリだ。 ニュースとして結果報告だけで充分だ。 今回に限らず、日本の日本的報道には、根本に「伝える」という本質から逸脱した、情緒滴る要素が多過ぎる。 なんで日本人はこうも情という、個人の内面の有り様を、公的な場に欲しがるのか。「ヤワ」としか思えず、 なんだか気持ち悪い。もっと普通に、恬淡とした伝えが欲しい。日本という場の、社会通念、常識、価値観、社会性への疑義を思う。260年間にわたる封建制のDNA呪縛がいまだ日々、意識下にあるのか。お上御尤も、一億総○○、赤信号……など、自動律の不快を感じ、 意識できずにいる此の国の“普通”を、検証し続けるべきだ。
話は飛ぶが、こんな事象がある。 とある小学生の野球チームの話だ。監督やコーチはボランティアなのだが、 練習や試合時に各選手を呼ぶのに、名前を呼び捨てにしていたのを見たか聞いたか、その子供たちの親が監督に、「うちの子を呼び捨てにしないでください。家ではクンやチャンづけで呼んでいますから……」アホも此処まで来ると言葉がない。なんて環境に日々いるんだ、 此の子たちは!と思わずにいられない。子供が育ちゆく中で、最も重要なのは環境だ。スポーツに限らず、それぞれが成長して形作っていく“大人”としての有り様は、子供時代の集約、反映、具体だ。ヤワでアホな親を持ったら、いかに優れた遺伝子を奥底に持っていようと、人として浮かばれることはない。争い、競争するという場は、文字どおり、精神と肉体への練磨を如何に積み重ねるかの場だ。スポーツも、結局は自己への闘争以外の何物でもないことを、ヤワでアホな親たちは知るべきだろう。
一方、金メダルを取ったときの羽生選手の汗と涙と喜びと戸惑いが交差する表情は、己に尽くし切った人間の美しさに満ちて、 極を極めた人間の顔には見事でした!と静かに喝采を送りたい。
しかしだ。 オリンピックなんて前近代的なイヴェントはなくて良い。大なり小なり、FIFAやIOCはマフィア組織に違いない。幾度となく摘発を繰り返したところで、あまたの国の人間関係が生む、悪なる影が消えないのだ。第一に、五輪のマーク、つまり五大陸をあらわし、人種・ 国境をもとに競争するというシステムが問題だ。一見、良さげに映るかもしれないが、もはや国を背負って立つは古い。デジタル、AI、 時代に世界を見渡し知れば知るほど、民族、国家、国境とは何なの かと考えざるを得ない。
今回のオリンピックは朝鮮半島という極めてシリアスな場での開催だった(なぜ歴史的に、半島という地理条件が争いを生むのか、ヴェトナム半島、バルカン半島、イベリア半島、と史実が問うている)こうした緊張関係の素因は、大国のエゴに違いなく。民族とは、国境とはなんなのだと、人という種の愚かさを思う。
とはいえ、かく言うわが国は、アメリカという、 たかだか200数十年の歴史の寄せ集め人種の国の、犬だか、ハワイの西にある州だか、、どう見たって独立しているとは政経に民度に思えず、上っ面の辻褄合わせに終始している。
オリンピックに限らず、難民問題はヨーロッパに長きにわたる混乱をもたらし日本も何れ拘らずにはいられない。まして此れだけ高齢化社会が現実となって来て労働人口不足は、 一時前の就職難がウソのような求人難に、いくらAIを云々としたところで、人間が肉体を使う職業が全てなくなるとは考えにくい。そして、日本人のみで肉体労働がまかなえるとは、この先考えられない。つまりは、外国人労働者をどんどん入れて行くしかない。
今のこの島国の現状は、一民族で、ほとんど鎖国状態だとしても、民意レベルでの開国が、まずは要るのではないか。当然、犯罪を始め、諸事問題が多々としても、それ以外に出口はないと思える。だが、オリンピックは人間の肉体と精神の競争であり、争いではない。言うまでもなく、人間ゆえの一番の悪といえば、戦争だ。地域戦争や難民問題と、オリンピックを一緒に考えはしないが、 人間が、人が、国家という立場になって発する欲望は限りなく続く。
バートランド・ラッセル著『宗教から科学へ』ではないが、 宗教と称し科学と称し、この星を壊し続けている人間。ヒットラーや自国民6000万人を粛清したスターリンなどは問題外だが。アフリカやアラブ諸国の国境が、 地図上で真っ直ぐに線引きされているのも、かつてのイギリスを始め大国のエゴの具体として残っている。国・民族という枠組みは、人口問題としても早々立ち行かず、民主主義・資本主義のシステム自体の限界が来つつあるとも思えてならない。
地球の寿命は50億年と言われる。その頃、果たして人類は生存しているのか。依然と民族・国・国境と云う線引きの中にいるのか。根本に於いて、人間は相変わらず単なる欲望する生物でしかないのか。空の果てから覗いてみたいものだ。
週刊大衆増刊「ヴィーナス」4/3号掲載の連載より引用
話は飛ぶが、こんな事象がある。 とある小学生の野球チームの話だ。監督やコーチはボランティアなのだが、 練習や試合時に各選手を呼ぶのに、名前を呼び捨てにしていたのを見たか聞いたか、その子供たちの親が監督に、「うちの子を呼び捨てにしないでください。家ではクンやチャンづけで呼んでいますから……」アホも此処まで来ると言葉がない。なんて環境に日々いるんだ、 此の子たちは!と思わずにいられない。子供が育ちゆく中で、最も重要なのは環境だ。スポーツに限らず、それぞれが成長して形作っていく“大人”としての有り様は、子供時代の集約、反映、具体だ。ヤワでアホな親を持ったら、いかに優れた遺伝子を奥底に持っていようと、人として浮かばれることはない。争い、競争するという場は、文字どおり、精神と肉体への練磨を如何に積み重ねるかの場だ。スポーツも、結局は自己への闘争以外の何物でもないことを、ヤワでアホな親たちは知るべきだろう。
一方、金メダルを取ったときの羽生選手の汗と涙と喜びと戸惑いが交差する表情は、己に尽くし切った人間の美しさに満ちて、 極を極めた人間の顔には見事でした!と静かに喝采を送りたい。
しかしだ。 オリンピックなんて前近代的なイヴェントはなくて良い。大なり小なり、FIFAやIOCはマフィア組織に違いない。幾度となく摘発を繰り返したところで、あまたの国の人間関係が生む、悪なる影が消えないのだ。第一に、五輪のマーク、つまり五大陸をあらわし、人種・ 国境をもとに競争するというシステムが問題だ。一見、良さげに映るかもしれないが、もはや国を背負って立つは古い。デジタル、AI、 時代に世界を見渡し知れば知るほど、民族、国家、国境とは何なの かと考えざるを得ない。
今回のオリンピックは朝鮮半島という極めてシリアスな場での開催だった(なぜ歴史的に、半島という地理条件が争いを生むのか、ヴェトナム半島、バルカン半島、イベリア半島、と史実が問うている)こうした緊張関係の素因は、大国のエゴに違いなく。民族とは、国境とはなんなのだと、人という種の愚かさを思う。
とはいえ、かく言うわが国は、アメリカという、 たかだか200数十年の歴史の寄せ集め人種の国の、犬だか、ハワイの西にある州だか、、どう見たって独立しているとは政経に民度に思えず、上っ面の辻褄合わせに終始している。
オリンピックに限らず、難民問題はヨーロッパに長きにわたる混乱をもたらし日本も何れ拘らずにはいられない。まして此れだけ高齢化社会が現実となって来て労働人口不足は、 一時前の就職難がウソのような求人難に、いくらAIを云々としたところで、人間が肉体を使う職業が全てなくなるとは考えにくい。そして、日本人のみで肉体労働がまかなえるとは、この先考えられない。つまりは、外国人労働者をどんどん入れて行くしかない。
今のこの島国の現状は、一民族で、ほとんど鎖国状態だとしても、民意レベルでの開国が、まずは要るのではないか。当然、犯罪を始め、諸事問題が多々としても、それ以外に出口はないと思える。だが、オリンピックは人間の肉体と精神の競争であり、争いではない。言うまでもなく、人間ゆえの一番の悪といえば、戦争だ。地域戦争や難民問題と、オリンピックを一緒に考えはしないが、 人間が、人が、国家という立場になって発する欲望は限りなく続く。
バートランド・ラッセル著『宗教から科学へ』ではないが、 宗教と称し科学と称し、この星を壊し続けている人間。ヒットラーや自国民6000万人を粛清したスターリンなどは問題外だが。アフリカやアラブ諸国の国境が、 地図上で真っ直ぐに線引きされているのも、かつてのイギリスを始め大国のエゴの具体として残っている。国・民族という枠組みは、人口問題としても早々立ち行かず、民主主義・資本主義のシステム自体の限界が来つつあるとも思えてならない。
地球の寿命は50億年と言われる。その頃、果たして人類は生存しているのか。依然と民族・国・国境と云う線引きの中にいるのか。根本に於いて、人間は相変わらず単なる欲望する生物でしかないのか。空の果てから覗いてみたいものだ。
週刊大衆増刊「ヴィーナス」4/3号掲載の連載より引用
「寿司職人が何年間も修行するのはバカ」
また〝彼〟――ホリエモンが、こんなオカシナことを言ってるようだ。 最近は、良い専門学校もあるし、寿司を握るだけなら、3か月でマスターできる、と。あとはセンスとスマホの情報があれば、数か月で一流 になれる・・だって? AI 信者とはこういった奴らということか。
確かに近未来は直ぐそこで、AIが人の職域をはじめ、日常のすべてに関わってくるのは間違いない。人間と機械がどう関係していくかが、単に産業革命うんぬんでは済まないレベルに行くだろう。そこで人間であることの戸惑い、彷徨いは計り知れない。ゆえにだ、人という実存の有り様を現在、過去、未来にわたり意識、認識し、想定を超えた現実をいかに受け取り、取捨選択していくのか。人間が人間を、かつてない問いを突きつけられる時が来る。
堀江にこだわる気はサラサラ無いけど、彼は新人類でも何でもなく、人間実存を知らないだけなのでは。外側だけ、現象だけを受け取り、己と云う内側、自身の奥地に面と向かったことがないのではないか。やはり単純にも、本質的にも、まずは人なる己を知ることだな。
俺は、高校を出て、名古屋で写真家の助手をやって基本技術を習得し、東京に出て写真家・杵嶋隆に師事して、フリーになったのは21歳。つまり修行時代は、18から21歳くらいの時期だな。
そのとき、俺にあったのは、「東京に行って一番の写真家になる」という強い意志だけだった。 そのためには、プロの技術をしっかり覚えたいと思って、飛び込んだわけだよ。
今でもよく覚えている。名古屋の先生のところで、現像に使う希酢酸に、「指先をつけておけ」って言われたんだよ。すると、指先が茶色になって、指紋が薄くなり、これで、フィルムや印画紙に触っても指紋がつかないようになる。
他にも、陶磁器やグラスを並べて、静物として撮るときのことだよ。レンズの長短にもよるんだが、レンズを通してみると、外側に置いてあるグラスが外側にわずかに倒れて見える。これを周辺収差と言う。
そのほんの0コンマ数ミリを、グラスの底に何かを挟んで真っ直ぐに写るように調整するんだ。
紙だと写り込んでしまうし、じゃあ何を使えばいいのか? 先生も俺も一生懸命になって発想する。
まあ、こんなのはほんの一例にすぎない。要するに、プロの領域は普通では考えられない技術の展開が必須。 それもこれも感性感覚世界の奥地は無限なわけで、限りなく湧いてくるイメージに辿り着こうと、息をするのも忘れるような苦しくも楽しい時が連綿と続く。トップに至るには天性といかに深度を持った技術を持つかに尽きる。そういうことを、2人の先生から徹底的に学んだわけだ。
俺には「一番になる」っていう、誰よりも強い意志があったから、全然、ツラいなんて思わなかった。 18~21歳。一般的には遊びたい盛りの年頃で、友達から「加納、出てこいよ」って誘いの電話も実際にたくさんあった。 だけど、俺は一切行かず、1日の半分は、酸とアルカリの饐えた匂いの暗室で過ごしていたよ。
東京で師事していた時は、先輩に4~5人の助手がいた。気がついたら、先生が撮るもの以外に依頼のある写真は、先輩たちを差し置いて かなりを俺が撮るようになっていた。 それが仕事だなんて意識もなく、ただ面白くて興味津々でやっていた。
言うまでもなくフィルムは、ただの化学物質。だけど、俺の中ではそうじゃない。写真漬けの濃密な日々を過ごす中で、完全に肉体感覚化していったんだよ。体に沁み混みフィルムが曰く言い難しな実在化をした。
それが分かったのは、俺が写真家として一流とか言われるようになった頃だったかな。 フリーになったときは、同じ世代にもスゴいものを持っているヤツがいっぱいいるんだろうと思ったが、なんのなんの。 第一に技術的に俺以上のものを持っている奴なんていなかったよ。何でも、俺が一番よく知っていた。当時カラーの現像までやっていた若い駆け出しはいなかった。
要は、つまりは理屈じゃないんだよ。感性に、どれだけのものを蓄積したか。
頭で覚えたり、考えたりすることは、余程のバカじゃなければある程度、誰でもできる。スピードの差が多少あるくらいのもんだろう。大事なのは、それを超える、理の先にある感性世界。それは、教えようと思っても教えられないし、ましてや3か月の専門学校なんかじゃ、 どうしようもない。プロの現場に張り付いていれば、知らないうちに自分の感性が感応する。感受していく中で、体に入ってくるものなんだよ。
若さの状況感応力は半端ではなく目の当たりのダイナミックな全てへの感受力がもたらす其れこそ人間力は己を知り他を知る、そうやって“人間”を知ることができる。
たとえば、自分の家を2人の建築家に頼んで作らせるとする。1人は、50過ぎの熟練の建築家。もう1人は、若くて尖がった新進気鋭の建築家だ。
完成し、まずは熟練の建築家の作った家に住んでみた。どうってことのない家だが、妙に落ち着いて居心地がいい家だった。
一方若い建築家の作った家はどうか。見栄えは良く、派手なアイデアに溢れていたが、住んでみるとどうにも落ち着かなかった。
どちらに住むべきかは、云うを待たない。
詰まりはどれだけ“人間”というものを知っているかと云う訳だ。
これは建築家、ル・コルビジェが言った一つの例え話だが、人間、50を過ぎないと人間を知り得ないとでも言いたかったのかな。
人間をどれだけ知っているか。それは、社会の根本であり理解であり、時代の理解にも繋がってくる。
この先、AIに転んだかに見えて来るだろうが、人は見えないところでの強さは簡単には人間を売ったりはしないはずと、時代の頁を捲って行きたいものだ。
結局、堀江はまだ目先、足元しか見えてないんだろうな。高感度鳥瞰レンズで世界を受け取り、いかに営為するか、いつか社会的円月殺法を伝授しようか!
週刊大衆増刊「ヴィーナス」3/4号掲載の連載より引用
また〝彼〟――ホリエモンが、こんなオカシナことを言ってるようだ。 最近は、良い専門学校もあるし、寿司を握るだけなら、3か月でマスターできる、と。あとはセンスとスマホの情報があれば、数か月で一流 になれる・・だって? AI 信者とはこういった奴らということか。
確かに近未来は直ぐそこで、AIが人の職域をはじめ、日常のすべてに関わってくるのは間違いない。人間と機械がどう関係していくかが、単に産業革命うんぬんでは済まないレベルに行くだろう。そこで人間であることの戸惑い、彷徨いは計り知れない。ゆえにだ、人という実存の有り様を現在、過去、未来にわたり意識、認識し、想定を超えた現実をいかに受け取り、取捨選択していくのか。人間が人間を、かつてない問いを突きつけられる時が来る。
堀江にこだわる気はサラサラ無いけど、彼は新人類でも何でもなく、人間実存を知らないだけなのでは。外側だけ、現象だけを受け取り、己と云う内側、自身の奥地に面と向かったことがないのではないか。やはり単純にも、本質的にも、まずは人なる己を知ることだな。
俺は、高校を出て、名古屋で写真家の助手をやって基本技術を習得し、東京に出て写真家・杵嶋隆に師事して、フリーになったのは21歳。つまり修行時代は、18から21歳くらいの時期だな。
そのとき、俺にあったのは、「東京に行って一番の写真家になる」という強い意志だけだった。 そのためには、プロの技術をしっかり覚えたいと思って、飛び込んだわけだよ。
今でもよく覚えている。名古屋の先生のところで、現像に使う希酢酸に、「指先をつけておけ」って言われたんだよ。すると、指先が茶色になって、指紋が薄くなり、これで、フィルムや印画紙に触っても指紋がつかないようになる。
他にも、陶磁器やグラスを並べて、静物として撮るときのことだよ。レンズの長短にもよるんだが、レンズを通してみると、外側に置いてあるグラスが外側にわずかに倒れて見える。これを周辺収差と言う。
そのほんの0コンマ数ミリを、グラスの底に何かを挟んで真っ直ぐに写るように調整するんだ。
紙だと写り込んでしまうし、じゃあ何を使えばいいのか? 先生も俺も一生懸命になって発想する。
まあ、こんなのはほんの一例にすぎない。要するに、プロの領域は普通では考えられない技術の展開が必須。 それもこれも感性感覚世界の奥地は無限なわけで、限りなく湧いてくるイメージに辿り着こうと、息をするのも忘れるような苦しくも楽しい時が連綿と続く。トップに至るには天性といかに深度を持った技術を持つかに尽きる。そういうことを、2人の先生から徹底的に学んだわけだ。
俺には「一番になる」っていう、誰よりも強い意志があったから、全然、ツラいなんて思わなかった。 18~21歳。一般的には遊びたい盛りの年頃で、友達から「加納、出てこいよ」って誘いの電話も実際にたくさんあった。 だけど、俺は一切行かず、1日の半分は、酸とアルカリの饐えた匂いの暗室で過ごしていたよ。
東京で師事していた時は、先輩に4~5人の助手がいた。気がついたら、先生が撮るもの以外に依頼のある写真は、先輩たちを差し置いて かなりを俺が撮るようになっていた。 それが仕事だなんて意識もなく、ただ面白くて興味津々でやっていた。
言うまでもなくフィルムは、ただの化学物質。だけど、俺の中ではそうじゃない。写真漬けの濃密な日々を過ごす中で、完全に肉体感覚化していったんだよ。体に沁み混みフィルムが曰く言い難しな実在化をした。
それが分かったのは、俺が写真家として一流とか言われるようになった頃だったかな。 フリーになったときは、同じ世代にもスゴいものを持っているヤツがいっぱいいるんだろうと思ったが、なんのなんの。 第一に技術的に俺以上のものを持っている奴なんていなかったよ。何でも、俺が一番よく知っていた。当時カラーの現像までやっていた若い駆け出しはいなかった。
要は、つまりは理屈じゃないんだよ。感性に、どれだけのものを蓄積したか。
頭で覚えたり、考えたりすることは、余程のバカじゃなければある程度、誰でもできる。スピードの差が多少あるくらいのもんだろう。大事なのは、それを超える、理の先にある感性世界。それは、教えようと思っても教えられないし、ましてや3か月の専門学校なんかじゃ、 どうしようもない。プロの現場に張り付いていれば、知らないうちに自分の感性が感応する。感受していく中で、体に入ってくるものなんだよ。
若さの状況感応力は半端ではなく目の当たりのダイナミックな全てへの感受力がもたらす其れこそ人間力は己を知り他を知る、そうやって“人間”を知ることができる。
たとえば、自分の家を2人の建築家に頼んで作らせるとする。1人は、50過ぎの熟練の建築家。もう1人は、若くて尖がった新進気鋭の建築家だ。
完成し、まずは熟練の建築家の作った家に住んでみた。どうってことのない家だが、妙に落ち着いて居心地がいい家だった。
一方若い建築家の作った家はどうか。見栄えは良く、派手なアイデアに溢れていたが、住んでみるとどうにも落ち着かなかった。
どちらに住むべきかは、云うを待たない。
詰まりはどれだけ“人間”というものを知っているかと云う訳だ。
これは建築家、ル・コルビジェが言った一つの例え話だが、人間、50を過ぎないと人間を知り得ないとでも言いたかったのかな。
人間をどれだけ知っているか。それは、社会の根本であり理解であり、時代の理解にも繋がってくる。
この先、AIに転んだかに見えて来るだろうが、人は見えないところでの強さは簡単には人間を売ったりはしないはずと、時代の頁を捲って行きたいものだ。
結局、堀江はまだ目先、足元しか見えてないんだろうな。高感度鳥瞰レンズで世界を受け取り、いかに営為するか、いつか社会的円月殺法を伝授しようか!
週刊大衆増刊「ヴィーナス」3/4号掲載の連載より引用
テレビをつければ、横綱・日馬富士による貴ノ岩暴行事件ばかりがクローズアップされている。こういう問題が起こるたびに思うんだが、相撲協会ってのは、いつまで経っても変わらないんだな!
彼らの体制は、とっくのとうに、時代錯誤甚だしいもの。相撲しか知らない理事たちは、バカの一つ覚えのごとく、古典的なやり方を続けていくことしか考えられないんだろう。
昔、俺がワイドショーのコメンテーターを務めていたとき、大相撲の八百長疑惑を番組で扱ったんだよ。俺は、八百長があるともないとも断定はしていないんだが、それなりに触れて話をしたんだ。
そしたら、「加納が、八百長があると言った」と伝わったらしく、相撲協会から「加納を呼べ」と番組に連絡。担当ディレクターが、VTRを確認しても、やはり俺は何も断定的なことは言っていない。だが、局として、相撲協会とのつき合いもある。「申し訳ありませんが、一緒に行っていただけませんか」と言うので、仕方なしに行ったんだよ。
理事長室に、理事たちが雁首並べてお出迎え。なんだかギャーギャー言ってたよ。でも、俺は言ってもないことだからな。「八百長があると思うのか?」って聞かれても、冗談じゃねぇぞ、相撲取りごときに負けてられるかと、スキあらば、猫騙しか張り手でもしてやろうと思ったけど、表向きはしら~っと、「はい」も「うん」も言わずに、聞いた振りもしないでいたよ。
そしたら、「コイツに何を言っても仕方がない」と思われたんだろうな。通り一遍のことを言われて、解放されたよ。どうしようもない相撲界の体質を体感したわけだが、それは今も変わらんのだろう。
貴ノ岩の師匠である貴乃花親方の頑なな態度の背景には、そんな相撲協会に対する不信感や、改革への思いがあるんだろう。ただ、協会よりも、警察への届けを先に行い、協会の協力要請を固辞し続ける貴乃花のやり方ってのも賛成できない。
先の理事長選で八角親方に負けて、閑職に追いやられた。それで、スネているだけじゃ話にならない。
それに、貴乃花親方は、モンゴル勢の朝青龍の相撲じゃないが“勝てばイイだろう”的な相撲。白鵬を頭としたモンゴル勢が集う“モンゴル人互助会”なる集まりがあり、ゲスの勘ぐりをすれば、星の貸し借りとかへの疑義を感じていたのでは?
貴乃花はかつて、結婚、家族の問題で、マスコミにオモチャにされた経験もある。拒絶したいのも分かるが、子供が駄々を捏ねている感じだ。もっと人としてプロになれよ。事を鳥瞰する眼を持てよ。
確かに、協会に先に報告をしていたら、親方同士で話をつけて〝詫びを入れさせます〟と内々に処理されて終わりだろう。そうさせないために、警察の捜査を優先させて、すべてを表に出したってことだよな。
それも一つの考えだけど、彼が、もう一つ大人で、本気で理事長を目指して、相撲界を変えたいという思いがあったら、やり方は違うよな。
ああいう古典的な団体の中で組織を改革するなら、それだけの人間力、人を統べる力、先を読む想像力と、色んな力が必要になってくるが、貴乃花はどれも欠落しているよ。
実際、今回、いったい誰が得をしたんだ? 騒ぎ立てる、週刊誌やワイドショーを喜ばせただけだろうに。
本当は、貴乃花は株を上げるチャンスだったんだ。この事件を内々に処理されたら、面白くはないだろう。でも、理事や親方衆に、大きな貸しとなる。それを足掛かりに相撲界を掌握し、「次は貴乃花だ」と声を上げさせてこそ、改革が始まるが、そのへんのことを秤にかける度量がない。
勝負事に、自分で負けにいっているんだ。あれじゃあ今後も人望を培えないだろう。
もちろん、実際に暴行をはたらいた日馬富士、それを見て止めなかった白鵬たちも、ひどいもんだ。世間一般で言えば、人を殴るのは犯罪なんだから、刑事責任を問われて当然。
「礼儀礼節を正すのは先輩の義務」なんて、よく言えたよな。「殴ろうと手に持ったものが滑って落ちた」ってことらしい。滑ってんのはお前自身だろ?
そもそも、最近の大相撲はデブが多すぎる。ヒザを悪くする力士が多いのは、そのためだろう。技量のある力士も減っていて、体重勝負の相撲じゃあ、ちっとも面白くない。
第一、サポーターだらけの相撲取りばかりってのは、見ていていかがなものかと。相撲の始まりには見世物として歌舞伎とも繋がりがあったはずだ。相撲美ってのは無理か……でも栃錦や若乃花(初代)時代の相撲は、二枚蹴り、けたぐり、内掛、呼び戻しなんて派手な技がバンバン飛び出して、本当に面白かった。
今の、体力で押し出す、寄り切るばかりの相撲には魅力を感じないよ。
技の前に“気”だよな。一番見たいのはそこ。見たことのない、異常な闘争心を目の当たりにしたい。ガチンコ相撲、そんな力士を見たいよ。
それと、これだけ怪我人が増えてきたのも問題だ。体重制限の導入を検討したっていい。
年間で6場所、1場所15日開催、土俵の大きさ、部屋制度、一門のあり方、ちゃんこ料理……全部、一度、見直す必要があるよな。
そもそも相撲は、“チョンマゲとまわし”という文化で、あらかじめ現代とはズレている。それだからこその良さ、守っていくべき伝統もあるんだろうが、一方で、世の中に必要とされるには、時代との折り合いをつけていくしかないんだろう。
相撲はまず、幕内力士の大勢がモンゴル人で、この時代、人種云々は元より通用しないが、日本の国技と言うなら、そこをどう考えるのか、あまりに日本力士はもちろん、日本人の弱さとお人好し振りが気にならないのかと。
相撲協会の理事を相撲上がりは三分の一にして、マネージメントはじめスポーツ知識人というか、プロの人間を入れることだ。力士も、余計な贅肉を削ぎ落とす必要がある。デブ競争ではない、ガッツと技の競技を望みたい。
それにだ、白鵬は、双葉山の横綱相撲に敬意を表しているが、勝てないとなると張り手、カチ上げと、品格はどこへやら。云いしてた、後の先、は何処へ行ったのだ!昨今の白鵬は、力士、横綱、人として首を傾げざるを得ない。何か気持ち悪いよ、お前!
週刊大衆増刊「ヴィーナス」2/1号掲載の連載より引用
彼らの体制は、とっくのとうに、時代錯誤甚だしいもの。相撲しか知らない理事たちは、バカの一つ覚えのごとく、古典的なやり方を続けていくことしか考えられないんだろう。
昔、俺がワイドショーのコメンテーターを務めていたとき、大相撲の八百長疑惑を番組で扱ったんだよ。俺は、八百長があるともないとも断定はしていないんだが、それなりに触れて話をしたんだ。
そしたら、「加納が、八百長があると言った」と伝わったらしく、相撲協会から「加納を呼べ」と番組に連絡。担当ディレクターが、VTRを確認しても、やはり俺は何も断定的なことは言っていない。だが、局として、相撲協会とのつき合いもある。「申し訳ありませんが、一緒に行っていただけませんか」と言うので、仕方なしに行ったんだよ。
理事長室に、理事たちが雁首並べてお出迎え。なんだかギャーギャー言ってたよ。でも、俺は言ってもないことだからな。「八百長があると思うのか?」って聞かれても、冗談じゃねぇぞ、相撲取りごときに負けてられるかと、スキあらば、猫騙しか張り手でもしてやろうと思ったけど、表向きはしら~っと、「はい」も「うん」も言わずに、聞いた振りもしないでいたよ。
そしたら、「コイツに何を言っても仕方がない」と思われたんだろうな。通り一遍のことを言われて、解放されたよ。どうしようもない相撲界の体質を体感したわけだが、それは今も変わらんのだろう。
貴ノ岩の師匠である貴乃花親方の頑なな態度の背景には、そんな相撲協会に対する不信感や、改革への思いがあるんだろう。ただ、協会よりも、警察への届けを先に行い、協会の協力要請を固辞し続ける貴乃花のやり方ってのも賛成できない。
先の理事長選で八角親方に負けて、閑職に追いやられた。それで、スネているだけじゃ話にならない。
それに、貴乃花親方は、モンゴル勢の朝青龍の相撲じゃないが“勝てばイイだろう”的な相撲。白鵬を頭としたモンゴル勢が集う“モンゴル人互助会”なる集まりがあり、ゲスの勘ぐりをすれば、星の貸し借りとかへの疑義を感じていたのでは?
貴乃花はかつて、結婚、家族の問題で、マスコミにオモチャにされた経験もある。拒絶したいのも分かるが、子供が駄々を捏ねている感じだ。もっと人としてプロになれよ。事を鳥瞰する眼を持てよ。
確かに、協会に先に報告をしていたら、親方同士で話をつけて〝詫びを入れさせます〟と内々に処理されて終わりだろう。そうさせないために、警察の捜査を優先させて、すべてを表に出したってことだよな。
それも一つの考えだけど、彼が、もう一つ大人で、本気で理事長を目指して、相撲界を変えたいという思いがあったら、やり方は違うよな。
ああいう古典的な団体の中で組織を改革するなら、それだけの人間力、人を統べる力、先を読む想像力と、色んな力が必要になってくるが、貴乃花はどれも欠落しているよ。
実際、今回、いったい誰が得をしたんだ? 騒ぎ立てる、週刊誌やワイドショーを喜ばせただけだろうに。
本当は、貴乃花は株を上げるチャンスだったんだ。この事件を内々に処理されたら、面白くはないだろう。でも、理事や親方衆に、大きな貸しとなる。それを足掛かりに相撲界を掌握し、「次は貴乃花だ」と声を上げさせてこそ、改革が始まるが、そのへんのことを秤にかける度量がない。
勝負事に、自分で負けにいっているんだ。あれじゃあ今後も人望を培えないだろう。
もちろん、実際に暴行をはたらいた日馬富士、それを見て止めなかった白鵬たちも、ひどいもんだ。世間一般で言えば、人を殴るのは犯罪なんだから、刑事責任を問われて当然。
「礼儀礼節を正すのは先輩の義務」なんて、よく言えたよな。「殴ろうと手に持ったものが滑って落ちた」ってことらしい。滑ってんのはお前自身だろ?
そもそも、最近の大相撲はデブが多すぎる。ヒザを悪くする力士が多いのは、そのためだろう。技量のある力士も減っていて、体重勝負の相撲じゃあ、ちっとも面白くない。
第一、サポーターだらけの相撲取りばかりってのは、見ていていかがなものかと。相撲の始まりには見世物として歌舞伎とも繋がりがあったはずだ。相撲美ってのは無理か……でも栃錦や若乃花(初代)時代の相撲は、二枚蹴り、けたぐり、内掛、呼び戻しなんて派手な技がバンバン飛び出して、本当に面白かった。
今の、体力で押し出す、寄り切るばかりの相撲には魅力を感じないよ。
技の前に“気”だよな。一番見たいのはそこ。見たことのない、異常な闘争心を目の当たりにしたい。ガチンコ相撲、そんな力士を見たいよ。
それと、これだけ怪我人が増えてきたのも問題だ。体重制限の導入を検討したっていい。
年間で6場所、1場所15日開催、土俵の大きさ、部屋制度、一門のあり方、ちゃんこ料理……全部、一度、見直す必要があるよな。
そもそも相撲は、“チョンマゲとまわし”という文化で、あらかじめ現代とはズレている。それだからこその良さ、守っていくべき伝統もあるんだろうが、一方で、世の中に必要とされるには、時代との折り合いをつけていくしかないんだろう。
相撲はまず、幕内力士の大勢がモンゴル人で、この時代、人種云々は元より通用しないが、日本の国技と言うなら、そこをどう考えるのか、あまりに日本力士はもちろん、日本人の弱さとお人好し振りが気にならないのかと。
相撲協会の理事を相撲上がりは三分の一にして、マネージメントはじめスポーツ知識人というか、プロの人間を入れることだ。力士も、余計な贅肉を削ぎ落とす必要がある。デブ競争ではない、ガッツと技の競技を望みたい。
それにだ、白鵬は、双葉山の横綱相撲に敬意を表しているが、勝てないとなると張り手、カチ上げと、品格はどこへやら。云いしてた、後の先、は何処へ行ったのだ!昨今の白鵬は、力士、横綱、人として首を傾げざるを得ない。何か気持ち悪いよ、お前!
週刊大衆増刊「ヴィーナス」2/1号掲載の連載より引用
なに? 最近は、人に電話をするのが失礼な行為と受け止められていて、突然、電話してくるようなヤツは〝電話野郎〟と呼ばれて蔑まれるらしいじゃないか。
ホリエモンこと堀江貴文氏も、「電話してくる人とは仕事をするな」などと言っていて、賛同する者が多いんだって?
〝自分の時間〟を奪う、際たるもんが電話だってことらしいが、なんて心小さき、感性小さき、心狭きヤツらの話なんだと思うね。
何にしても、“自分の言いたいことが伝わりゃいい”っていう手前勝手な前提の話で、電話だと言いにくいけど、メールだと言いやすい、聞きやすいっていう、弱者の戯言にしか聞こえないよ。
要するに、メールでしか交流を持てないヤツが増えていて、そういう連中が〝今の時代は、そういういうもの〟と錯覚してラクに過ごそうとしているに過ぎないんだろう。知らず知らずに自ら失われて行く人間力をなぜ認識出来ないのか。
程度の悪いAI(人工知能)か! 現代、そんな“ゴミAI”みたいなのが増えてって、いいわけがないだろう!
だいたい、日本語というものは、非常に繊細なもの。言葉の裏側に隠されたニュアンスっていうものも多い。その隠された部分が、表の10倍あることもある。
それをメール、文章だけで言葉にするのは非常に難しい。夏目漱石じゃあるまいし、語彙や表現力をちゃんと持っているヤツがいるか?
人間は、どんなにつまらない通信でも、相手に思いを馳せるもの。使う言葉はもちろん、語気や間合い、息遣いからも「なんか嫌だな」「いいな、俺もああしたいな」と、色々と伝わってくるものがある。
人の人品骨柄を含めて「肉声」で伝えることが、通信の本質だろう。
事務的な連絡、ビジネスの連絡でも、数字の話だけじゃなくて、そこに人間であり、肉声があってほしいと俺は思うわけだよ。
メールより、電話でやったほうが、温度が伝わる、気が伝わる、輪郭やタッチが伝わるだろう。
受け取るほうも、ニュアンスを受け取る気もないというのは、精神的な許容がなさすぎる。
メールだと、お互いに平等に伝えたいことが伝わるって?
それも勘違いも甚だしいよ。平等なんて、永劫未来、過去も現在も過去も未来にもないからな!
ただ、電話での直接的なやりとりになると、行き違いもあれば、感情のぶつかり合いもあるよ。
俺なんか、相手の話を聞きながら、自分が言いたいことを喋り出すのは当たり前。
おそらく相当ヤリにくいヤツだろう。
自分でも、時々、「いけねぇ、いけねぇ。相手はうんざりしているな」って省みることもあるけど、それでも自分から湧いてくるイメージやメッセージをどんどん言っちゃうわけだ。
決して褒められたことじゃないけど、そのやり取りの中で伝わるニュアンスや本質というものが間違いなくあるし、相手と関係する中で、知らない自分に出会うこともある。そういうものの積み重ねが、最終的なビジネス判断にも、大きく関わってくるんじゃないのか?
結局、生身の人間を知らないことには、ビジネスだって始まらないんだよ。
そういう生身の味を知らずに、一拍置き、二拍、三拍置いて、無難なやり取りをすることの、何が通信なんだよ!
人間の実存ってのは、何かとアナログで関係しないと立ち上がって来ない。
カメラでも、デジタルってのは確かに良く映る。だから、シャッターを押す人間が、いかに世界を感じて取り込むかという“人間力”の勝負になって来ていて、アナログを知っているほうがずっと強いんだよ。
それと、メールか電話かの問題も、かなりイコールな部分があるよ。
人間の生の良さ、温度、気配、空気は、絶対にAIには作れないもの。人と人が関係して発せられるものは多様にあるんだ。
今日の話なんだが、俺の携帯に、登録してない番号から電話がかかってきたんだよ。「誰だ?」と思いながら、「もしもし?」と低めのトーンで出たら、昔、世話になった人だったわけだよ。
そしたら、「あ、お元気ですか〜」って、俺も急に声が変わる(笑)。その豹変ぶりを隣にいたマネジャーは笑っていたけど、それでいいんだよ。
一連の立ち振る舞いで、色んなことが伝わるじゃん。こいつ、コロッと変わったな、自分にはそれだけの認知をしているんだな……と、相手も分かる。
どう受け止めるかは相手が決めることで、どうだっていいじゃない。そのくらい裸でいろよ、根性を持てよ、と思うわけだよ。
相手が不機嫌そうな声を出す、自分が思ったような反応をしてこない。そんなこといくらでもあるよ。
世界は自分じゃない。言うまでもないが、全員が、自分とは異なるヤツなわけだ。
だから、相手が自分にとって、心地よい回答をくれるわけがない。そう思っていればいいわけで、そいつらの特色を楽しめばいいだろう。
それを、自分の狭い世界観の中だけで生きようとするから、〝電話野郎〟なんていう泣きごとを言い出すんだよね。
実際、俺にくる仕事やその他の連絡も、今はほとんどがメールで送られてくる。電話したがらないヤツも多いし、こっちが電話しても出ないヤツも本当に多くなってきた。そういうヤツには、俺はしつこく電話するし、メールの返信に、「細かい部分は伝わらないから、電話してくれ」って書くからな。
もちろん、メールやLINEの全てを否定する気もないが、全部メールってのは違うだろう。少なくとも、これはメール、これは電話でやったほうがいいという図式、概念を自分の中にしっかり持てと強く思うね。兎に角どうしてこうも人間が弱くなってるのか、ネガな奴等が何の問題意識も持たず己を繰り返してるのか、合理性とかコンビニエンス等の家来に成り果てているのか。
要は生まれた時代は選べない人間が其の時代の文明と如何に拮抗するかと云うことだ。
だいたい、ホリエモンの言うことに賛同するやつらってのもどうかしているよ。
彼の経歴、環境、仕事の内容までも、かなり特殊で、少なくとも、この電話の件に関しては、とても一般的なテーゼになんてなりえないだろうって。
週刊大衆増刊「ヴィーナス」1/4号掲載の連載より引用
ホリエモンこと堀江貴文氏も、「電話してくる人とは仕事をするな」などと言っていて、賛同する者が多いんだって?
〝自分の時間〟を奪う、際たるもんが電話だってことらしいが、なんて心小さき、感性小さき、心狭きヤツらの話なんだと思うね。
何にしても、“自分の言いたいことが伝わりゃいい”っていう手前勝手な前提の話で、電話だと言いにくいけど、メールだと言いやすい、聞きやすいっていう、弱者の戯言にしか聞こえないよ。
要するに、メールでしか交流を持てないヤツが増えていて、そういう連中が〝今の時代は、そういういうもの〟と錯覚してラクに過ごそうとしているに過ぎないんだろう。知らず知らずに自ら失われて行く人間力をなぜ認識出来ないのか。
程度の悪いAI(人工知能)か! 現代、そんな“ゴミAI”みたいなのが増えてって、いいわけがないだろう!
だいたい、日本語というものは、非常に繊細なもの。言葉の裏側に隠されたニュアンスっていうものも多い。その隠された部分が、表の10倍あることもある。
それをメール、文章だけで言葉にするのは非常に難しい。夏目漱石じゃあるまいし、語彙や表現力をちゃんと持っているヤツがいるか?
人間は、どんなにつまらない通信でも、相手に思いを馳せるもの。使う言葉はもちろん、語気や間合い、息遣いからも「なんか嫌だな」「いいな、俺もああしたいな」と、色々と伝わってくるものがある。
人の人品骨柄を含めて「肉声」で伝えることが、通信の本質だろう。
事務的な連絡、ビジネスの連絡でも、数字の話だけじゃなくて、そこに人間であり、肉声があってほしいと俺は思うわけだよ。
メールより、電話でやったほうが、温度が伝わる、気が伝わる、輪郭やタッチが伝わるだろう。
受け取るほうも、ニュアンスを受け取る気もないというのは、精神的な許容がなさすぎる。
メールだと、お互いに平等に伝えたいことが伝わるって?
それも勘違いも甚だしいよ。平等なんて、永劫未来、過去も現在も過去も未来にもないからな!
ただ、電話での直接的なやりとりになると、行き違いもあれば、感情のぶつかり合いもあるよ。
俺なんか、相手の話を聞きながら、自分が言いたいことを喋り出すのは当たり前。
おそらく相当ヤリにくいヤツだろう。
自分でも、時々、「いけねぇ、いけねぇ。相手はうんざりしているな」って省みることもあるけど、それでも自分から湧いてくるイメージやメッセージをどんどん言っちゃうわけだ。
決して褒められたことじゃないけど、そのやり取りの中で伝わるニュアンスや本質というものが間違いなくあるし、相手と関係する中で、知らない自分に出会うこともある。そういうものの積み重ねが、最終的なビジネス判断にも、大きく関わってくるんじゃないのか?
結局、生身の人間を知らないことには、ビジネスだって始まらないんだよ。
そういう生身の味を知らずに、一拍置き、二拍、三拍置いて、無難なやり取りをすることの、何が通信なんだよ!
人間の実存ってのは、何かとアナログで関係しないと立ち上がって来ない。
カメラでも、デジタルってのは確かに良く映る。だから、シャッターを押す人間が、いかに世界を感じて取り込むかという“人間力”の勝負になって来ていて、アナログを知っているほうがずっと強いんだよ。
それと、メールか電話かの問題も、かなりイコールな部分があるよ。
人間の生の良さ、温度、気配、空気は、絶対にAIには作れないもの。人と人が関係して発せられるものは多様にあるんだ。
今日の話なんだが、俺の携帯に、登録してない番号から電話がかかってきたんだよ。「誰だ?」と思いながら、「もしもし?」と低めのトーンで出たら、昔、世話になった人だったわけだよ。
そしたら、「あ、お元気ですか〜」って、俺も急に声が変わる(笑)。その豹変ぶりを隣にいたマネジャーは笑っていたけど、それでいいんだよ。
一連の立ち振る舞いで、色んなことが伝わるじゃん。こいつ、コロッと変わったな、自分にはそれだけの認知をしているんだな……と、相手も分かる。
どう受け止めるかは相手が決めることで、どうだっていいじゃない。そのくらい裸でいろよ、根性を持てよ、と思うわけだよ。
相手が不機嫌そうな声を出す、自分が思ったような反応をしてこない。そんなこといくらでもあるよ。
世界は自分じゃない。言うまでもないが、全員が、自分とは異なるヤツなわけだ。
だから、相手が自分にとって、心地よい回答をくれるわけがない。そう思っていればいいわけで、そいつらの特色を楽しめばいいだろう。
それを、自分の狭い世界観の中だけで生きようとするから、〝電話野郎〟なんていう泣きごとを言い出すんだよね。
実際、俺にくる仕事やその他の連絡も、今はほとんどがメールで送られてくる。電話したがらないヤツも多いし、こっちが電話しても出ないヤツも本当に多くなってきた。そういうヤツには、俺はしつこく電話するし、メールの返信に、「細かい部分は伝わらないから、電話してくれ」って書くからな。
もちろん、メールやLINEの全てを否定する気もないが、全部メールってのは違うだろう。少なくとも、これはメール、これは電話でやったほうがいいという図式、概念を自分の中にしっかり持てと強く思うね。兎に角どうしてこうも人間が弱くなってるのか、ネガな奴等が何の問題意識も持たず己を繰り返してるのか、合理性とかコンビニエンス等の家来に成り果てているのか。
要は生まれた時代は選べない人間が其の時代の文明と如何に拮抗するかと云うことだ。
だいたい、ホリエモンの言うことに賛同するやつらってのもどうかしているよ。
彼の経歴、環境、仕事の内容までも、かなり特殊で、少なくとも、この電話の件に関しては、とても一般的なテーゼになんてなりえないだろうって。
週刊大衆増刊「ヴィーナス」1/4号掲載の連載より引用