
漸く夏が去り田圃が日に日に濃い黄金色に豊穣し空の雲達が高くなり風の気配が季節が移ったことを知らせて、コスモスの派手だが優しい色模様に寂しさが漂い、気持ちよい空気のなか微かな哀しみが過ぎていく。
BS.NHKで坂本九が歌い世界中でヒットした《上を向いて歩こう》の制作に関わった中村八大、永六輔を始めとするドキュメントをやっていた。
歌手坂本九さんの思い出が蘇った、昔六本木の俳優座の横の道を入って直ぐの右側の小さなビルの地下にグランドピアノとドラムにベースが置いてある小さなジャズクラブが有った、名を[マックスホール]と云った。
マックスのオーナーは安室奈美恵以下数々の歌手やグループを排出した沖縄の(アクターズスクール)の校長、マキノ正幸で彼は日本の映画界の草分け牧野省三を祖父に、早撮りで有名だったマキノ雅弘を父に女優轟由起子を母に、又俳優故長門裕之さんに津川雅彦さんは従兄と、芸能の濃い血を引いたともすれば独善主義者ともうつる個性派である。
マックスホールのピアニストは故世良譲に時々大野雄二の2人が弾き歌手は笠井紀美子と今では有り得ないような雰囲気が漂うジャズクラブだった。
歌を止めて長いが笠井紀美子は音域こそ狭いが女性と云うより女としての魅力に独特の世界があって彼女の歌を際立たせていた、何時だったか なかにし礼 さんと話していて彼女の話しになり、礼さん曰く笠井紀美子は日本のいい女の10指に入ると語っていた。
1969年暮れに写真展FUCKを日本橋のギャラリーでやって私は世に出て行ったのだが、NYで撮ったFUCKは写真展ではモノクロで展示したのだがオリジナルはインフラレッドも含めカラーで撮っていて、其れ等を唯一写真展の前に見せた事がある、その場がマックスホールでグラウンドピアノの上に35mmのプロジェクターを2台並べて壁にB全のケント紙2枚を張り交互に大量のFUCK・PHOTOを写した。
何処で話しを聞きつけたのか色んな人達で店は溢れていた、其の中に坂本九さんがいて興味深く写真を見てくれていたのを思い出す、BS.NHKのドキュメントを見ながらマックスホールでの九さんや、後に御巣鷹山で亡くなられたこと等が巡り若かった時が半分懐かしく半分苦く思い出され、否応無しに年令を突きつれられて答えがないことに戸惑う・・・・・。
其のFUCK・PHOTOが今年の12月9日から銀座BLDギャラリーで42年の時を経てオリジナルな形で展示される、天上の九さんにオープニングセレモニーに来てくれるように案内を出そう。

新宿四谷四丁目の Roonee247 フォトギャラリーで杵島さんが以前NYで展示されたソフトフォーカスレンズに寄る風景写真の個展レセプションに行って来た。私が助手をしていた時代にも杵島さんは4×5にソフトフォーカスを付けてファッションや人物を撮っていて、当時ソフトフォーカス使いの名手であった。
今回のソフト風景写真は憶えの有るものは少なく、日本画の世界とも云えて東山魁夷ライクな作品等がLA生まれの日系二世のDNAの何処に潜んでいたかと不思議だ。プリントも和紙にカラープリントしたがの如く鮮やかで当たり前だが流石である。
今年亡くなられて各種の個展が開かれているが、杵島さんはあの時代にして色んなジャンルの写真を撮っていて才の深さを思う。
今年の暮れ12月9日[予定]で銀座のBLDギャラリーで杵島さんとのコラボレーション展があり、Scandal3だったかなタイトルのもと杵島さんの桜田門外ヌード等に、私は未だオリジナルな形では未発表な1969年NYで撮った《FUCK》を出す予定で、69年暮れにやったFUCK展はコピー紙に刷ったものでオリジナルとは云えず、私を世に出した写真が初めて出る訳で楽しみです。
この間草間弥生さんの個展を青山のワタリウム美術館で見たが、草間さんが60年代後半にやっていたイヴェントやパフォーマンスの数々に出ていた草間チームのモデル達を、69年にNYで少なからず撮っていたものがFUCKに多く有って、ワタリウム草間展の過去の写真に写っているパフォーマー達に見覚えのある顔が多々あった。
写真は皆写真家で向かって左から野町和嘉さんに88才になられ元気な芳賀日出男さんに三好和義さんに私です。

日本カルミック・共立製薬社長高居隆章さん70才と茶道家大谷裕巳さん50才、お二人の足して120歳合同バースデーパーティが台風12号が丁度東京を通り過ぎようかと風雨吹き荒ぶ21日の夕方から六本木であった。
交通機関も殆どストップしてしまい帰宅困難者が街に溢れタクシー捕まえるのに誰もが苦労していた。
サントリー会長佐治さんセガサミー会長里見さん始め錚々たるオジサン達が嵐をものともせず集っていた。
六本木が終わると銀座に赤坂とオジサン達の元気は、嵐を呼ぶ男組よろしく夜を奔って時を享受していた。

荒木とも随分久し振りに会った、ドン小西のパーティ好きは仕事でもあるから致し方ないけど、私は得意ではなく余り出ない。
其れでも此れは出ておこうと云うのが有って出掛けるのだが、いわゆる文化人と云うかアーティストも含めたゾーンの人々の集まりは好きではない、なんか居心地が良くないのだ、夫々確かな仕事をされていて兎や角云いする事も無いのだが、其の気配が物の怪感覚としては引っ掛かるのだ。
荒木も自己人生演出も見事で生来の写真好きが具体として花咲いている。
朝起きた最初の一息から写真呼吸が自動運動するのだろう、飽きもせず撮り続けていて其れ也の見せない努力や周りのバックアップも然り乍ら、矢張り持って生まれた天性が全てと云うことか。

私の後ろに控えめにと云うか隠れ気味の美女は、「アーヴィング・ペンと三宅一生」展を文字通り13年余を掛けての大仕事を制作演出した、三宅デザイン事務所社長・北村みどり・さんで会場で明るく元気に立ち回られていた。
会場に彼女のメッセージが書かれていたが、毎年彼女が一生のデザインした新作をNYのペンのスタジオに運び撮影をしたとある、一生のアーティスティックデザインをペンが見事なファッション写真に撮り込んで行くのを、目の当たりにしながら、当たり前とは云え感嘆しきりと云う日々だったとあった。
13年の希有なるアーティス2人のコラボレーションを、作り続ける実に何処にも誰にでも出来る仕事では無い、文化的にも実に意味ある充実した仕事で、一生とペンは元よりだが北村女史に賛辞と労いを送りたい。

ミッドタウンで開催された、上記のコラボレーション展で久し振りに広告制作ディレクターの麹谷さんとコピーライターの日暮さんに会った、皆さん元気そうで何よりだ。
70近い年令の人が集うと、ついつい年令のことや身体の話しに成りがちで、好いような悪いような思いが、話題を重ねながらもつのる。
麹谷さんと、故田中一光さんが此の展覧会をご覧になったら、何と云われたかな・・きっと見たかったよねと話し、時の移ろいが人の想い等容赦なく征服して行くのを憶え、事も無く過ぎて行く日々を如何に生きているか時間の意味を考えてしまう。

東京六本木ミッドタウンで故アーヴィング・ペンと三宅一生さんが13年間に渡りファッションデザイナーとフォトグラファーがコラボレーションした作品の展覧会があった、超一流のアーティスト二人からすれば当然の結果かも知れないが、13年の仕事は歴史的な業績とも云えてファッションと写真が商業レベルを超えてアートの領域にある、心より賛辞を送りたい。
制作にあたり二人は会って仕事はしなかったとの事、一生が作品をNYに送りペンが其れを撮影という形を13年間通したと或る、其れには色々な意味合いが有ると云えるが、結果の素晴らしさは云うをまたない。
一生さんとは若い頃、サテン布の形が有るか無いかのような服をモデルに着せて撮った事がある。
一時ファッション写真に空手のボーズが流行った事があったが、その時撮った写真が空手ポーズの世界初だったと記憶している、若くヤンチャだった私はファッション写真など写真に有らずと話しが来ても撮らなかった。
一生さんとは何かで知り合い、その付き合いで撮ったといった調子であった、人の撮ってないファッション写真とは何かと云うことで、空手のポーズを思い付き撮影したのだが上手くいき、一生さんの作品集に初期のものとして入ってるかと思います。
展示されたミッドタウンの展示場が地形故か妙な三角形で、導線といい空間といい無理があり、感覚にギクシャクとした違和感をもたらせ引っ掛かる、相も変わらずコンクリート打ちっ放し大好きの,あの建築家さんらしいが。
一生さん、写真タイミング悪く一枚しかなかったのでゴメン。

個展を名古屋・名鉄百貨店・で開催します。
●会期・2011年12月7日〜13日
●会場・名鉄百貨店・10F・クローバーサロン・Ⅰ.Ⅱ. 164,7㎡
●主催・THE TENMEI PROJECT
●共催・名鉄百貨店
●協力・飛騨産業・日進木工
●プリント協力・キヤノンマーケティングジャパン株式会社
■ 今般、名古屋・名鉄百貨店の御厚意により個展を開きます。4年前に銀座キャノン・サロンで開催し、全国6都市を廻って以来の個展です。
内容に付いて若干の説明をしますと、3グループ。1・オリエンタル タッチな世界 2・NASA 宇宙世界 3・静物写真 です。
■ 今回の個展はプリントは全て、予てから展開しているキャンバス《画布》プリントによる表現です。
■ 上記した岐阜県高山市の家具メーカー様の協力のもとダイニング・リビングテーブル、椅子等々と写真とをコラボレーションしたアート家具を展示します。
■ 尚、今回全ての展示物を販売致します、写真に関しては数量限定の上、会期中に限り加納典明ホームページの作品価格より安価に販売します。
■ 上記の売上金全てを東日本大震災で被災された母子家庭に義援金として送ります。
義援金の扱い送りは全て名鉄百貨店にやって頂きます。
■ 数多の人々が直接間接を問わず東北被災地えの応援をされていて、私に出来る事はと頭の隅で考えが尽きる事無く、其の1つの答えとして今回の名鉄百貨店の協力のもとの開催と成りました、規模も其れ也のスケールではないかと考えます。
上記 THE TENMEI PROJECTによる今後の個展は、東北えの応援として継続致します。
■ 此の彷徨う日本の政治経済状況の中、困難を生きんとする被災母子に想いをされ、加納典明が写真を超えて次なる想像の世界にチャレンジせんとする具体を、見て頂けたらと念じるものです。
■ どうか暮れの開催の折りにはご来場あって御協力をお願いします。
加納典明

銀座の写真ギャラリー BLDGALLERY http://www.bld-gallery.jp にディレクター長澤章生さんに会いに行ってきた。
1969年暮れに銀座ディックビルのギャラリーで開催した個展[FUCK]の写真と、今年亡くなられた我が師 杵島隆さんとのコラボ展をと声が掛かったもので、9月9日から始まる、宇野亜喜良・沢渡朔・立木義浩・寺山修司・森山大道 による[SCANDAL 2]展の連環展なのか[SCANDAL 3]としてか暮れに予定したいとの事で、43年前のNYでの写真FUCKを持って行った。
この1969年の写真は26才の時、初めてのNYで目から鱗の日々であった、$1が¥360の時代である。
何と云ってもNYの人達の性に対する意識が、解放されない若者の性意識を始め60年代安保闘争、ヴェトナム戦争、ビートニック、サイケデリック等々混沌とした時代背景のもと、NYは日本とは全く異なる星であった。
FUCKは其のNY達の性を通して日本に精神的解放・精神勃起を促そうと考えて、あらゆる性のパターンを追っ掛けた。中に今や世界有数のアーティストに立った草間弥生さんが主催していたイヴェント・パフォーマンス、一種の乱交パーティを撮ったものがあって、チラッと草間さんが写っているカットもある。写真展に間に合うよう写真集も制作する事になった。
何と云っても[FUCK]と名前の付いた個展や写真集は古今東西ない筈で、善い悪いは見る側の精神の資質に任す。
私個人としては己から湧いて出るインスピレイトの前には、如何なるものも問題にならない訳で、習慣慣習、中庸意識、時代感覚、其れ等がもたらす価値観など完全無視と云うことで、アートの前には我在るのみと云うことだ。
何れにしても此の写真をまとまった形で見せるのは初めてで、1969年の個展はコピー紙に刷ったモノクロで、ディスプレーを故倉又史郎さんがやってくれ、時代を超越した写真展ではあった。
今回のオリジナルカラーの中には69年、丁度NYに居る時にヴェトナム戦争北爆用に作られた赤外線カラーフィルムが発売され、其れで撮ったものもあり、全貌を展示するのは初である、どう考えても日本で発表は無理と云うカットもあって、長澤さんどうするかな、楽しみとしよう。

NHK・アナウンサー青山祐子さんと外資系金融を仕事にしている谷元樹君が結婚した。
或る時、祐子さんから電話が入って「私結婚する事になりました、相手の方は加納さんご存知の人です」とあり、相手の方つまり、谷君と電話を変わり、電話の向こうから谷ですと明るい声が帰ってきたが、俄には思い出せなくて、ぐるぐる頭が巡り、エッそうかと思い出した。
随分と久し振りの谷君で彼とは6年振り位か、遊び上手で元気でバリバリの仕事人間で、只の若者とは一味も二味も違う馬力をもった青年だなと印象していた。
しかし私の知る祐子さんと谷君では住む世界も価値観も可成りの違いがある、其の二人が結婚とは少し驚いた。
ま、しかし恋と縁とは図り得ないことが起きるが世の常で、御目出度う。
20日に午前から結婚式と披露宴、夜に二次会で六本木ヒルズ52階でパーティーとあったのだが、午前の結婚式にも招待されていたのだが、すっかり勘違いして欠席をしてしまった。
日本カルミックの高居さんドン小西から電話が入り、オイ何処にいるんだ式も披露宴も始まってるぞって言われ、ええっ結婚式有ったのかって頭抱えたが時既にと云う奴で、私は軽井沢に居て到底間に合わない。
お色直しの着替えの時にか祐子さんから電話が入って、未だ来ないのかと・・・。
事は私の勘違いも甚だしと云うことだが、彼達の式の最初の予定が震災により延期になり、何時するのかなと思っていたが4・5日前に祐子さんからメールがあって、当日の二次会の案内があった、其れをすっかり式自体は彼達が既に行い披露宴をパーティ形式でやるんだと思い込み、書式で案内の有った事をすっかり忘れていたと云う次第。
云う言葉も無しといったところで、甚だ申し訳なし。
150人ほどの披露宴の主賓席に呼ばれていたらしくセガサミー会長里見さん日本カルミックの高居さん長嶋茂雄さん王貞治さん始め著名なるお歴々の座る中私の席だけがポツンと空いていて、目立っていたとはドン小西の弁であった。
写真は夜のパーティでの輝く2人と・・・・・なオッサン。