
京都から送られて来た焼酎の話。
何でも奄美大島の平成22年の大災害の復興の一助となればということで、京都の酒造関係とは縁もない会社が、奄美大島の特産である黒糖を利した焼酎を製作した。もちろん製作は奄美大島の酒造会社が造っているのだが。それが送られて来た「甚松40」である。京都からはシンプルに「飲んで意見を聞かせて下さい」とあった。
私の焼酎のベスト1は時に新潟の知り合いが送ってくれた「越乃寒梅」の焼酎である。「越乃寒梅」は「社長が焼酎が飲みたいから作ってみては」ということで、初手は商品にするつもりは無かったらしいが、当然かなりの数量が出来てしまうわけで、それらを飲んだ人達の評判が良く、いまやレギュラーの商品としてある。「越乃寒梅」のこの焼酎は確か度数が42、3度あるはずで、ほとんどウイスキー並だ。どことなくトロっとしてその度数のキツさがロックでチビチビやると丁度の味わいになって悪くない。
日頃私の好きなハードリカーは、スコットランドやアイルランドのシングルモルトウイスキーである。いろんなシングルモルトがあるが、やはり一番飲むのは「マッカラン」の12年かな。シングルモルトウイスキーの良さは、スコッチウイスキーと違って、誰しも思うだろうがピリッとくる度数の強さを上手く生かしているところである。まさに男の酒という感じである。
というわけで、この「甚松40」はひとくち口に含むとその強さがピリッとくる。そしてその後に遠い声、遠い部屋って感じで黒糖の気配がする。何となく度数の強さが際だっていて些かそれが角になっている、それと同時にまぁ金の話だが、越乃寒梅は720mlで6、7千円するはずで、この「甚松40」は5千円程と聞いている。焼酎としては安くない値付けである。それでもこのくらいの度数を持った焼酎となると致し方ないのか。
シングルモルト好きとしては、マッカランの12年は大体3、4千円で手に入る。酒種が違うから比べるのは意味が無いけど、ハードリカーを飲むとなると、やはりシングルモルトに行ってしまう。
「甚松40」の特徴である黒糖テイストというのが馴染めるかどうかが一番の課題だろう。「越乃寒梅」は日本酒の派生として作っていったわけで、米と糀からくる味は日本酒を超ハードにした世界で違和感が無い。故に「甚松40」の黒糖テイストを味として一度飲んだら、どれだけ強くインプリントさせるかというか、クセにさせる何かがもうひと味欲しい気がする。
いずれにしても、奄美大島の応援ということでの酒造り、及びビジネス、持続する研鑽をされて、より南の焼酎としての世界が拡がることを願うものです。些か散文的なテイスティングになりましたが、そこは素人、お許しあれ。

22日より2週間の私の個展「カオ」が名古屋で始まっている。写真に写っているキュレーター長澤氏と名古屋に行って来た。キヤノンギャラリーが場所を移転して、伏見町と錦通りの角の目に付きやすい場所に移っていた。長澤氏の好みや意見も聞き、また色んな人の意見を聞くに、人々の反応、つまり感性反応と云うのは、プロであれアマであれ、実に多様で面白い。
此の先札幌で12月開催をして「カオ」展は終わるが、来年3月に台湾台北で2箇所同時開催で個展を開催する。この「カオ」も一部持って行くことになると思う。台北での個展はタイトルを「神威龍」として題材は昨年名古屋名鉄百貨店で展開した「片目のツァラトゥストラ」展の内容を進化拡大したものである。サイズも主サイズがF120と、今のところ可能なキャンバスプリントとしては最大のサイズで展開する。其の後、未だ未だ予定でしかないが、シンガポール、そして全く未だ具体的ではないが、香港に行けたらと考えている。
此の場で云う事では無いが、香港のアートシーンに人脈を探しています。何方か紹介して頂けたら幸いです。勿論それが仕事となって行く事も有りと考えて頂いて。

戦後、ほとんどの時代を自民党政権が担ってきたわけだが、私個人としては、生きてる間に一度は非自民党構造の時代を生きてみたかった。それが3年余前に民主党となり、私だけではないだろうが、随分と民主党政権には期待を持った。しかし当初の民主党マニュフェストには些か目先の美味しさばかりを謳って政治的公約にしては如何にもアマチュアっぽかった。
父親がマルキシズムの洗礼を受けた人だったこともあり、私自身の資質とは別に左翼構造をかなり教育されたことなどにより、ずっと現実とは違うノンポリ的ではあるが、心の底では左翼意識というのは、少なからず私を支配していた。単純に云えば、父親の教育力であった。私も70になり、創造者として写真を真ん中に色々なことに関わり生きてきたが、今突破せんと始めた、ジャンルで云えば現代芸術への道を開始している。もちろん、写真をやめるということは有り得なく、古今写真技術というものが発明されて以来、数多の画家が実は絵画制作の裏で写真をかなり利していたという事実がある。其のことに何の問題も無いが、絵画的世界の端緒に着くにあたり、経験と見識を広めていく中で写真と絵画の関係をより深く創造の未知世界が大きく拡がってきている。勿論アートというのは全て終着点はなく、そのプロセスの具体を現し続けるにすぎないが・・・、まぁ如何に自身に対する格闘力があるかないかに拠る。
話が逸れてしまったが、今の日本を見ると、かつて60年代から始まった「The British disease (イギリス病)」を思い起こす。日本もバブル以降失われた20年、政治経済、民、教育状況等、もう言葉にならないような状況を生きている。問題は社会構造をはじめ全てに渡り、地球という容れ物の中の日本の有り様は、正にイギリス病と同行異色と云えるのではないか。つまり「日本病」なのである。
イギリス病の歴史は余りに多岐に渡るので、各々で調べて欲しいが、実によく当てはまる部分がある。イギリスはどうやって1998年辺りからイギリス病を克服していったか、その混乱と経緯を日本社会は一度検証したら良いのではないか。鉄の女サッチャーを単純なヒロイズムで持ち上げる気は無いが、時代は究極に至ると やはり人を生む。それが暴走老人なのか、大阪の青年なのか、返り咲いた元首相なのか・・・。
昔、明治維新の折に、政治構造をイギリス、軍事構造をドイツ、だったと思うが、日本は範を得た。しかしそれは結局短絡的に云えば帝国官僚国家主義を作り、自己中心的な官僚軍閥が太平洋戦争敗戦へと導いて行った。云いたいのは、今日誰も知っていることだが、日本の一番大きなガンは、官僚組織とそれを行う役人達である、と同時に「御上ご尤も」と怒りを忘れ、もの云わぬ去勢された民、国民一人一人に巣くう子役人意識・・・。その顕著な例がメディアに現れている。
徳川260年がやった鎖国・・これは日本の地理的条件を考えるとやってはいけないことだった。織田信長という類稀なるセンスを持った為政者がいるにはいたが・・・。
幕藩体制の参勤交代とか士農工商という差別構造等を長きに渡り生きた人びとが培ったDNA・・イギリスの進化生物学者リチャード・ドーキンスが著した「利己的な遺伝子」の中にあったと思うが、「人一人の一生は、面々と続く家系(DNA)を次世代に運ぶ一艘の船でしかない」ということを、この歳になると実感として自覚する。ということからするとアノ260年掛けて深くインプリントされた鎖国構造社会での人心というのは一朝一夕には変えられないのは解るが、グローバルという意味で今を考え鳥瞰すると、其の民と為政者に渡る鎖国意識が顕在化してるに余りある。過去は決して帰ってこないのだよ、皆さん。時に歴史に範を取るのは必要だが、時代には、その時代のスピードというものがある。つまり時の移ろいというのは過去を背負って前へ行くという意識では今やグローバルレベルでは通用しない。
選挙の折、一票を投じるにおいて誰それに投票するということは、明らかに自分自身を選ぶということでもあるのですよ。この3年半のアマチュアイズムの失敗はあまりと云えばあまりであった。政治体制以前、経済体制以前に一番変革を必要とされるのは、民(国民)一人一人の認識と意識である。そうやって地べたからこの国の構造を変えていかないことには、如何にリーダーだのデジタル産業革命だの単焦点な捉え方では無い、根本的なところに立たねば結局何も始まらないのではないか。もうそろそろ小さな目先族、足下族的な官僚ごっこがクルクル小回りするメビウスの輪社会は見切りをつけようではないですか。とりあえず行動です。一票という名の。

歳の所為もありなるべく歩いている、気配は季節の移ろいの鬩ぎ合いを想わせ暑かったり寒かったりと定まらない、日本の政治の如しか・・
其れでも
何となく季節の狭間と云うのは気持ちの良い空気に感じられて悪くない。
道を行くとハラハラと枯れ葉が舞い降りて落ちた葉の一枚一枚に目がいき赤みの色付き加減や所々穴があいたり欠けていたりと、ついつい目がいってしまう・・そうやって枯葉と云うより紅葉の思い出深いのはと記憶が巡る、奥日光の紅葉を若い時に撮影に行き紅と周りの木々との露出が旨く行かず手子摺った事や、カナダの紅と云うより黄色な金色の巨木の海とも云える森を思い出していたが・・ふっと、記憶とはおかしなもので友人のバイク仲間が癌治療の果てに亡くなったと伝えて来た事を思い出した、直接には知らない人だがバイク好きの友の親友であったバイク乗りと云うので気にはなっていた・・・そうやって亡き友 小野勝司 と走った紅葉を思い出していた、あれは長野の何処かだったか矢張りバイク仲間の杉江と西口も一緒に走っていた。
バイクに乗る人、其れも何方かと云えば趣味でしかも外車しか乗らないようなコアな、しかもある程度走れると云うかオートバイの走りの際を体感し知っている人には理解出来ると思うが、バイクは危険な乗り物には違いなく、其の恐怖こそがバイクの真髄の一つで他の事では先ず得られない世界で、是はやった者で無ければ解らない・・・。
小野勝司や上記のバイク仲間はそう云った些か危険走りを共有した友で・・此処からは理屈や論理に言語では現し難いのだが⇒・バイク仲間・と云うのは言うに云えない友達感覚がある・・縁者の死に云う迄もなく上下も色の違いもないが、何ゆえか微妙に独特の気配がある・・私だけの想いかも知れないが・・・。
小野達と走った紅葉と云うのは、あれは1Kmは有ったと思う一直線の道で、皆さん想像して下さい、其の道が紅葉真っ盛りの・紅いトンネル・で道の真ん中をワンとアクセルを吹かし素っ飛んで行くと紅一色の枯葉が舞い上がり、半ば辺り迄走っているとエンジンの唸る爆音と飛び去る落ち葉と真上迄覆い尽くした紅い時空が⇒ナンダコレハ・といった感じで恍惚そのものだった、感性を超越した時に在た。・・何十年も前のシーンだが鮮明に蘇る。諸兄バイクには代え難き何かが理屈ではない何かが潜んでいますぞ!
如何って事の無い枯葉の写真を、此の季節に逝った友人のバイク仲間に・・・・。

ヌードモデルのバストと云っても大きさは色々だし、膨らましている娘もいるし中々バランス良く左右が揃った形の良い胸は少ない、大体は心臓のある左バストが大きめなんだが彼女は左右揃っていて良い胸をしていた。
勿論左右がアンバランスなバストも其の娘の持つ気配により多様で色気と云うのは無限にある訳で・・・。
雑誌《典明》時代はヌードモデルの顔は二の次でオッパイとお尻がカオだ! 顔なんかどうでも良いよってノリで選んでいたが大衆の兼ちゃんは美形を連れてくる、私としてはごく普通の街歩いているような、其れも一歩引いた感じの多少生活感のある表町系じゃない娘が良いのだけどね・・・。
《典明》時代は日々大量撮影で次から次えと若干人と云うより物撮る感じでいたが、最近はヌードの娘にも其の娘の実存する故を想うと云うか感じながら撮ってるのを意識する・・何故だろうな・・・。

銀座 BLD GALLERY ・GALLERYに来年台湾の先の打ち合わせに行き、長澤さんとタグボートの徳光さんに会った。
日頃の写真仕事と違いアート関係の、個展等は随分先の事をプログラムする訳で、其の時間的なスパンに些か面食らう、また会場により5年先の展示とかになるようで、非現実的な感じがしてしまう、5年先の感覚感性となると今とは事に寄るが、全く違う世界にいる筈だしチョットなと云う思いがする、しかしアートワークと云うのは持続する・感覚意識・が必要と云う事やも知れず、認識を創って行くしか無いのか? 若しくはもっと強烈な時代を切り裂くような克ってない次元の表現を目指しジャンルなど意に介さないレベルの表現を意識することか!
BLDで森山さんに偶然会い記念写真を一枚。

彼女は元ジバンシーのモデルとしてパリを拠点に活躍した後写真家に転身、文章と写真のコラボを始め独自の写真世界を展開している。
銀座キヤノンギャラリーで今日から個展が始まった。
映画〈アバター〉の空中島のロケ地になったとかの中国湖南省張家界・世界自然遺産・武陸源を撮った作品で、落ち着いた、撮らんかなと云った邪気のない気持ちのよい写真だった。
11月号アサヒカメラの表紙と巻頭グラビアを飾っている写真です。
写真の美女は兎も角 野獣はもうチョット控えりゃいいのにねえ・・。

日本の写真家でイギリスのロックンローラーを誰よりも撮っているのが鋤田さんで、HPに書いた事があるが1969年の夏NYで草間彌生さんのイーストビレッジのスタジオで彼女がセントラルパーク等で展開していたパフォーマンスをやってくれた。裸の男女が交錯する中、裸体に赤い水玉を描きまくっていたのを発売されたばかりの赤外線カラーフィルムで撮りまくった写真が私のデビュー作《FUCK》である。その後ロンドンに回りサイケデリック真っ盛りの街を歩いていると道の反対側を鋤田さんが歩いていた・オーイ 鋤田・と声を掛け話すと、T・レックスを撮りに来てるとの事だった。前後に彼はデビッド・ボーイを可成り撮っていてボーイの代表的なジャケットは彼の作品で、他にも沢山のロッカーを撮っている。この間東京写真美術館で其れ等の集大成とも云える個展を開催していて会場には写真にしたNo.1ロッカー 布袋寅泰 も来ていた。まあ何れにしろロッカーを撮り続けると云う事はロックの歴史の証明をしているに他ならず鋤田さんの仕事の貴重を思う。
今日11Pm,NHK TV>BS1.エルムンド に写真と共に出るとのこと、色んな話も聞けるのではないかな、ボーイの目のことはナシかな!
私の写真集《FUCK》も去年の暮れに漸くオリジナルな形で出版されました。

来年春に台北の2ヶ所で個展が予定されていて、其の打ち合わせに行って来た。
台北中心街の賑わいは結構なもので、101ビルと云ったかな松山飛行場からも見えるランドマークになっているタワービルの辺りは、歩く人達の明るい顔を始め輝く空気感が繁栄温度を現し肌身に感じる、日本は一体全体何を眠りこけているのかとジレンマを覚えてならない。
自閉し閉じこもる日本社会に暮らす人々は、人の営みと云うのをどう考えて日々を送っているのか、今更現政治家及び経済人の人材不足を嘆いて阿呆なメディアに小洗脳されていては、永遠に続くぜ此の酸素不足は・・・ずうっと考えているが何故なんだろうな、其の因をビジネスレベルのデータとかコンサル的なリスクヘッジ論では何も答えは出ない訳で価値観とか諸々ある常識など徹頭徹尾無視するのだよ・・・とにかくキンタマの座った視野鳥瞰力を持った男がいない。
ま、だからと云う訳では無いが台北の國立台湾大学體育館主球場で全日本 V.S新日本プロレスの対抗戦をやっていて、写真左のキュレーター長澤氏がレスラー武藤敬司ファンだったりで見に行った・・初めて最前席で見るプロレスは矢張り結構なものだった、予々私はボクシングの相手に対する殺意には精神性を感じ好きだが、プロレスは何れにしろ予定調和なのではと想像していた訳で・・・でも肉の殺ダンスは中々で2時間と云うもの初めての感覚に捉えられた。
レスラー・武藤敬司・が花道にスモークが噴出するなか・バン・と登場すると会場の空気が一瞬にして彼に集中した、なんだコレは、ちょっとした見物であった。
試合が終わり控えに訪ね記念写真とかで真近にしたレスラーの・色と肉・は特別と云っていい存在力もって屹立していた、優しく対してくれる人柄に妙なコントラストを覚え長澤氏がアートと云う感性領域の仕事にいながら武藤敬司のファンと云うのに、そうか・・とか思ったりして、ものごと感じるのも意識するのも認識するのも一面的では駄目だなと・・・。
皆も一度プロレス見たら、此の時代自分と遠い人なりプロセスなりを経験するのは、有りですぞ!

来年の台湾での個展の打ち合わせに行ってきた。折も折、全日本プロレスと新日本プロレスの対抗戦を国立台湾大学でやっていた。初めて生のプロレスを最前列で見た。見覚えのあるいろんなレスラーが出ていたが、トリに出て来た全日本の王者 武藤敬司は花道に登場した途端、ガツンと 云うに云われぬオーラが会場に立ち登った。・・何だコレは!遠目ではあるがインパクト大である。対抗戦はTVと違って生で見るのはやはり結構なものであった。ついつい職業柄事の有り様を引き算して見てしまうが、あっという間に2時間余が過ぎた。
終わって、全日本プロレスの社長 内田雅之さんに控え室に挨拶に行き武藤敬司に会った。そういう云い方は失礼だが、プロレスラーとしてのパッケージは色艶といい、筋肉といい、目の当たりにするとドキっとするような他にない種の存在力を持っていた。明るく挨拶を返してくれたのに調子に乗って「武藤さん、絞めて下さい!」と云ったところ、「おい、タオル持ってこい!」と若い衆に云って、わざわざ自らの汗吹く身体を拭いて私の首に手を回してくれた。もちろん本気でやるわけではないが、何だか えも云われず心躍った!と同時に写真を撮りたくなった。いつの日かお願いすることとしよう。皆も遠い目でプロレスを見てないで、一度間近に試合を見ると良いよ・・・きクぜ!